刑罰執行において公儀の慈悲深さを維持する方法:ボツマン『血塗られた慈悲、笞打つ帝国。』(2009)#1

 ダニエル・ボツマン氏の著作『血塗られた慈悲、笞打つ帝国。』(原題:Punishment and power in the making of modern Japan)より、邦題の前半部に関連する第2章の部分を読みました。

ダニエル・V・ボツマン「第2章 血塗られた慈悲――幕府のふたつの顔と被差別民」『血塗られた慈悲、笞打つ帝国。――江戸から明治へ、刑罰はいかに権力を変えたのか?』インターシフト、2009年、61–86頁。

血塗られた慈悲、笞打つ帝国。?江戸から明治へ、刑罰はいかに権力を変えたのか?

血塗られた慈悲、笞打つ帝国。?江戸から明治へ、刑罰はいかに権力を変えたのか?

 江戸時代、幕府と諸藩は人民の統治方法として、仏教の「慈悲」と朱子学の「仁(政)」をうまく組み合わせた。つまり、民衆に自らが畏怖の対象であることを知らしめると同時に、その慈悲によって庶民を守り、救う存在として自らをつくりあげたのである。このような統治イデオロギーは、本書が一貫して注目する刑罰制度とも密接に関連していることがわかる。一見、この時代におこなわれた刑罰のあまりの過酷さは、将軍や領主の慈悲深さとはほど遠いものに映るかも知れない。しかしながら、幕府・藩はそういった厳しい処罰をおこないながらも、その厳しさを場合に応じて軽くしたりすることで、自らが「仁政」の執行者であるというイメージを保持し続けようとしたのである。
 幕府や藩がそういった慈悲深さを維持するためにおこなったのは、罪を軽減したり、恩赦をおこなったりすることであった。たとえば、子どもという同情を集めやすい存在への処罰は、18世紀になって寛大な処罰をとることが制度化された。また、実際に起きた窃盗の内容を記した記録には、法律で厳罰が与えられる窃盗金額の上限ぎりぎりの金額が不自然にまでに多く記載されており、このことから現場レベルでは罪人の処罰の過酷さを融通していたことがわかる。さらなる例としては恩赦があげられ、これこそが幕府の慈悲を最も効果的に示す方法であった。天保12(1841)年に第11代将軍家斉の法事に伴っておこなわれた恩赦では、小伝馬町牢屋敷から出された囚人が市中を引き回され、寛永寺へと連れられてその場で町奉行から赦免が発せられている。このように、仏教寺院の慈悲という宗教的権威と幕府の仁政という政治的権威をうまく融合させながら、市中に幕府の慈悲深さを知らしめようとしたのである。
 幕府が「仁政」の執行者であるというイメージを崩さない別の方法として、刑罰の執行者を賤民に請け負わせていたことがあげられる。もちろん、中世より牛馬の死骸処理や寺院境内の清掃は、死や穢れに関連することからそういった被差別民の仕事とされていた。しかし、江戸時代においてその役割は、死や穢れといった観念との関連はもちろんのこと、それに加え、武士の慈悲深さの対極的な行為であるというイメージが付与されていったのである。つまり、厳しい刑罰がおこなわれる場面に賤民を置くことで、そのコントラストにおいて自らの慈悲深さを保持しようとしたのである。一方で、武士は公衆の面前で実際に残虐な刑がおこなわれる場面から自らを遠ざけ、もう一方で、これまで人の生命・財産を奪う者として「屠者」と人々に蔑称されていた武士のラベルを賤民に貼り替えようとしたのであった。

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