中央から地方へと変わる百姓撫育の担い手:有富純也「百姓撫育と律令国家」(2003)
有富純也「百姓撫育と律令国家――儒教的イデオロギー政策を中心に」『史学雑誌』112(7)、2003年、1195-1216頁。
のち、有富純也「第一章 百姓撫育と律令国家――儒教的イデオロギー政策を中心に」『日本古代国家と支配理念』(東京大学出版会、2009年)として所収。
- 作者: 有富純也
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 2009/03/01
- メディア: 単行本
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律令国家における百姓支配については、たとえば、戸籍などを通じた国家の百姓の把握など、既に多くの研究成果が生み出されている。一方、このような人民の統制・把握のために、国家が進めた撫育政策についてはそれほど検討されていない。そこで、本論文は8世紀から10世紀までの時期に着目し、国家による撫育政策の実態およびその変化を論じている。それらの検討を通じ、時代が下るにつれて、地方の百姓撫育に対する中央政府の介入が次第に弱くなっていくことが指摘される。
8世紀におこなわれた日常的な撫育政策として、まず、国司および中央政府からの使者による実践が検討される。毎年一回、国司は部内を巡行し、礼の秩序を百姓に教導する「国守巡行」をおこなっていたが、そのなかに撫育政策的な一面を見いだすことができる。たとえば、国司は百姓に尋問して辛苦を問いただしており、このとき、国司とともに使者が随行していたという。なお、『続日本紀』などにはむしろ、国司ではなく使者が百姓に辛苦を尋ねている事例が多く見いだせる。そういった訴えを受けた使者たちは、その後、中央に百姓たちの待遇改善を上申したのであった。一方、国司を監察するために派遣されていた地方行政監察使もまた、国司の働きをチェックするという主たる仕事に加え、自ら地方に赴き百姓へ撫育をおこなった。このことからは、中央政府は国司の撫育政策が十分ではないことを感知し、監察使にその補完的な役割を期待していたと推察することができる。
しかしながら9世紀に入ると、それまであまり活発でなかった国司の百姓撫育が盛んにおこなわれはじめる。すなわち、中央政府は地方の百姓撫育の担い手は「良吏」たる国司であるという認識を強め、彼らに地方の政治を委任しはじめたのであった。そのため、8世紀の百姓撫育において存在感を示していた地方行政監察使たちもその役割が変化させられることになる。たとえば、806(大同元)年に新たに設置された観察使は地方の百姓に自ら直接的に働きかけることはなくなっており、あくまで国司を介して彼らに接している。同様に、824(天長元)年に復置された巡察使もまた、あくまで国司の監察が主たる仕事であるとし、かつてのように百姓の辛苦を尋ねるということは自らの責務と捉えなくなった。
その後10世紀になると、地方における百姓撫育政策を中央政府は自ら進めることはなくなり、使者に百姓の辛苦を問いたださせることをしなくなった。その代わり、そういった役割は国司の最高責任者たる受領に委任されることになる。ここには、中央政府の地方統治における方法の変化を見いだすことができるだろう。すなわち、8〜9世紀には中国の儒教的徳知主義を模倣し、百姓をおさめようとしていた日本の律令国家であったが、10世紀初頭には地方を儒教的イデオロギーによって支配しようという姿勢が後退していったのである。
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特に、本書所収の丸山裕美子「古代の天皇と病者」。