江戸時代の人参にみるグローバルヒストリー:西垣昌欣「江戸長崎屋の機能」(2002)

 江戸時代における朝鮮人参をめぐる諸政策について調べていたので、関連する部分をメモしました。著者はあまり強調していませんが、江戸時代における人参をめぐる東アジアのネットワークはとても興味深く感じました。

西垣昌欣「江戸長崎屋の機能――文化期における「人参座用意金」の運用を中心に」『歴史学研究』767、2002年、27–44頁。

 近世日本において、オランダの商館員たちは毎春通詞を伴って江戸に参府するのが恒例となっており、出島の商館長は寛永10(1633)年から合計166回も江戸に行っている。彼らが江戸に滞在するときに泊まった「長崎屋」の、阿蘭陀宿としての機能については既に検討されてきたが、一方、それが同時に持っていた唐人参の人参座としての役割はほとんど注目されてこなかった。本論文は、長崎屋の唐人参座としての役割に着目することで、江戸の長崎屋が長崎における貿易の窓口として機能していたことを指摘するものである。さらには、人参をめぐる日本(江戸・長崎・対馬)・中国・朝鮮の交易ネットワークも明らかにされている。
 そもそも、中国からの人参需要が高まったのは、17世紀後半から朝鮮からの人参輸入量が減少していったことに由来する。その対応として、享保期に幕府は朝鮮人参の国産化を進めると同時に、朝鮮人参を補完するものとして唐人参に注目し、その流通経路の構築に取りかかった。そのような背景のもと、享保20(1735)年には長崎屋が江戸の唐人参座(江戸座)を担うようになり、長崎にある人参座(長崎座)との協力のもと、江戸において唐人参の販売をおこなったのであった。しかし、長崎における唐人参座の輸入量は、享保20(1735)年時点では178斤であったが、元文5(1740)年には713斤と一時的に増加しながらも、寛保3(1745)年には再び落ち込み237斤となった。その後、宝暦元(1751)年に長崎改革が進められたことにより、この長崎座は停止となり、宝暦5(1755)年唐人参の販売を長崎会所が担うようになった。その後、江戸に残っていた長崎屋による唐人参座(江戸座)も明和7(1770)年には廃止となり、長崎座・江戸座による唐人参の販売・流通は短い歴史を終えることになった。
 しかしながら、江戸の長崎座における唐人参座としての機能がなくなった後も、長崎屋は長崎会所から「人参座用意金」として金銭的支援を受け続けた。というのも、唐人参座として機能していたときから、長崎屋は長崎会所の貿易実務の一部を担い、江戸で会所の仕事を代行することが期待されており、いわば長崎会所の江戸支店とでも言うべき存在となっていたのである。一方、江戸での唐人参の流通を行わなくなった長崎屋であったが、享保期以来の朝鮮種人参の国産化政策が成功をおさめたことにより、寛政期頃からは今度は国産化した人参を長崎へと送り、それを出島を通じて世界へと輸出するようという新たな機能が付与されることになったのであった。

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