対ロ交渉過程にみる鎖国祖法観の形成:藤田覚『近世後期政治史と対外関係』(2005)

藤田覚「第I部第1章 鎖国祖法観の成立過程」『近世後期政治史と対外関係』東京大学出版会、2005年、3–20頁。

近世後期政治史と対外関係

近世後期政治史と対外関係


 鎖国はいつ、何を契機に「祖法」となったか。これが本書の第一の問いであり、そのことを日ロ関係史をみていくことで明らかにしようとしている。幕末の日本は、鎖国が祖法であるという理由によって、新たな国との交易を退けようとしていた。そこでの祖法とは、対外関係が朝鮮・琉球・中国・オランダだけに限られていたこと、そして、それ以外の国との新たな関係はもたないことが宣言されたものである。しかし、しばしば鎖国のはじまりと目される寛永鎖国令の段階では、単に海外との交渉が制限されているという曖昧な意味内容しかもっていなかった。つまり、幕末にみられるような鎖国観、つまり鎖国祖法観というのその間の二百年で形成されていったと考えられる。そこで著者は、ラクスマンからレザーノフに至るまでの対ロ政策をみることで、幕末にみられるような鎖国は祖法であるという考えがこの時期に形成されていったことを明らかにしようとする。
 まず、確認されるのは天明期における鎖国祖法観の不在である。ラクスマンとの交渉がはじまる少し前の天明6(1786)年、田沼意次政権の勘定奉行・松本秀持がロシアとの交易についてある伺書を記している。そこでは、現在の長崎における貿易は中国とオランダとの交易によって充足しており、新規にロシアとの交易をおこなうと国外へ金銀銅が流出してしまう恐れがあるために必要がないと書かれている。つまり、この段階では、ロシアとの新規の交易は、幕末にみられるような「鎖国の精神」や「鎖国の大法」を理由に退けられたのではなく、あくまで貿易上の理由から否定されていたのである。
 その後の松平定信政権でも「鎖国の大法」という考えはまだみえないが、鎖国祖法観の起点となった事例をみてとることができる。寛政4(1792)年、来日したロシア使節ラクスマンに送った諭書では、通信関係のない外国船が日本にやって来たとき、船を打ち払うのが国法であること、および、これまでの国以外との通信・通商を猥りにおこなわないのが国法であることが述べられている。しかし、実のところそれらは歴史的事実ではなかった。たとえば前者について、実際に打ち払がおこなわれたのは歴史上一回のみで、それ以外は穏便に処置するのが基本であった。つまり、定信はラクスマンに国法の規定に沿って対処していることを示すために、寛永鎖国令から約150年の歴史的事実を部分的に脚色することによって、「国法の創出」をおこなったのである。
 鎖国祖法観が成立したのは、文化元(1804)年のレザーノフとの交渉時である。そのような見方を最初に示したのが、幕府から対ロ関係について諮問されていた林述斎であった。彼は新規に通信関係を結ぶことは、「祖宗之法」により禁止されていると述べている。その際、具体的に「唐山、朝鮮、琉球、紅毛」という四つの国との通信・通商関係しか持たないことが明言されており、このような記述が幕末にまで引き継がれることになった。林述斎がそういった回答をおこなった背景には、寛政11(1799)年に幕府が蝦夷地を直轄化しようとしたときに直面した問題が関係していた。カラフトでは、大陸からやって来た山丹人や満州人とアイヌとの間でおこなわれていたが、もし幕府がカラフトを直轄化すれば、幕領で外国貿易がおこなわれることになってしまう。そうなると、定信の時代にラクスマンに長崎以外での交易がないと言ったことに反するため、ロシア側が不満をあらわにしてくることが危惧される。そこで、幕府内部では山丹交易と今後の対外関係について三奉行と林述斎との間で議論し、既存の貿易国以外に新規に交易を開始すべきではないという合意が形成された。そしてここでの合意が、レザーノフへの通商拒否という回答につながり、鎖国祖国観の成立へと結びついたのであった。