ハーヴィにおけるアナトミアの伝統の継承と新たな学知としてのアナトミア:月澤美代子「W・ハーヴィのアナトミアと方法」(2001)


 とある初期近代医学史のゼミで、ハーヴィに関する研究文献を読んでいます。第二回目のアサインメントは、月澤美代子先生によるいくつかの論考です。

月澤美代子「W・ハーヴィのアナトミアと方法」『日本医史学雑誌』47(1)、2001年、33–81頁。

 ウィリアム・ハーヴィ(1578–1657)という人物は、ロンドン医師協会で資格認定された「医師(physicus)」として、そういった医師たちによって構成される学会で講義する資格をもつ「教授(professor)」として、そしてその講義において自らの手で解剖をおこなう「解剖学者(anatomicus)」として特徴づけることができる。本論文は、解剖(アナトミア)について講じる教授としてのハーヴィの姿に着目することで、一見矛盾する彼の二つの言明について分析をおこなっている。具体的には、二つの言明をロンドン医師協会が主催した解剖示説講義というコンテクストに落とし込むことで、それら言明が当時の解剖の伝統と強く関連していたことを示そうとする。
 最初に検討されるのが、観察を重視した言明とされる「心臓の固有の運動はsystoleである」という言明である。その言明が明確に記されているのは、ハーヴィが1616年からおこなったラムリー講義という解剖示説講義の準備のために記したノートである。そのノートには、先行する医学書からの引用が多く書き写されており、その一つにガスパール・ボーアン(1560–1624)が著した解剖学初学者用のテキストがあげられる。その本は医学専攻の学生の受けるテストが意識されて書かれており、たとえば、「心臓の運動は、どのようか?」などのような問いと、それに対する答えとされる一般的な説と異説とが併記されて書かれていた。ハーヴィの先の言明も、まさにこういった伝統的なスコラ的教育形態のもとに問題設定がなされた一節であったと言える。このようにして著者は、機械論的な世界観に基づいて解釈されてきたこの言明を、当時の解剖の伝統のなかに位置付けたのである。
 次に検討されるのが、「心臓の運動の有用性は、末端で失った熱と精気を回復させるために、血液を熱と精気の源泉である心臓に戻すことである」という言明である。ハーヴィ研究者の草分けであるPagelは、かつて、この言明にハーヴィの非機械論的な見方、アリストテレス的な自然観を見出した。当時の解剖分野ではそういった目的因を問うような姿勢がしばしばみられるが、ハーヴィもまた何のために心臓の運動の作用があるのかを常々問うており、彼が当時の解剖分野における伝統的な問い方を引き継いでいたことがわかる。その回答はラムリー講義ノートではまだ見られないが、『動物における血液と心臓の運動について(de motu cordis)』(1628年)では、この第二言明の形で答えが提示されている。そこに散りばめられた、アリストテレスをはじめとする過去の権威のテキストの引用からもまた、ハーヴィの当時の解剖における知的伝統を引き継いでいたことがわかる。
 しかしながら著者は、Pagelが示したような守旧的なハーヴィ像を提示するに留まらず、彼が目指した新たな学知に注目している。ラムリー講義でハーヴィがおこなった「解剖示説」という行為は、過去の権威のテクストを重要視する医師学会の内部メンバーに向けておこなわれていた。その意味で、その行為は権威の言葉の枠内に閉じ込められていたといってよい。しかしながら彼は、あるときは通説に対して、それが「自らの感覚で確認できない」という理由で疑問を投げかけることもあった。つまり、ハーヴィは、アリストテレス的な形式論理に基づく論証に代わり、見るという行為に認識論的に特権的な身分を付与することで、古代ギリシャからの知の方法を乗り越えようとしたのである。このようにハーヴィは、解剖示説という方法を単なる「術(ars)」ではなく、新たな「学知(scientia)」であるとして捉えようと試みたのであった。