キリスト教知識人による戦後改革と無教会第三世代:赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(2013)#4

赤江達也『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学岩波書店、2013年、211–301頁。

 「第三章 無教会の戦後」では、戦後はじまるキリスト教ブームから1970年代までの時期が検討される。戦後の知識人たちは、それぞれが新たな理想を提示していこうとするが、そのときに中心的な役割を果たしたのがキリスト教知識人、とりわけ無教会主義者であった。無教会派の人々は、戦時下で非転向を貫いたという「殉教者効果」(竹内洋)、あるいは大学や教団から相対的に自由であったことなどにより、戦後啓蒙思想の旗手として大きく期待された。しかしより重要であったのは、無教会運動が特定の団体からは自由であるようにみえ、戦後憲法における信仰の自由、および教育基本法における公教育の中立性を、説得的に主張することができたという点であった。
 戦後の無教会運動の代表者である南原繁(1889–1974)や矢内原忠雄は、キリスト教ナショナリズムによる「精神革命」を主張した。たとえば、戦後最初の東大総長となった南原は、新しい日本文化を創造するために、戦中に軍国主義者や国家至上主義者によって濫用されてきた日本民族の神話を、日本神学の枠内から解放し、ヨーロッパ政治思想史へと組み入れようと主張している。このとき、日本にはルネサンス宗教改革が必要であるとされ、前者は既に天皇人間宣言によって達成されているが、後者はこれからキリスト教によって精神を内的・宗教的に変化させることが目指されるべきであると主張した。矢内原もまた、戦争の原因を「日本精神」に認めながら、今こそそれを近代主義的・平和主義的に換骨奪胎すべきであえると論じた。その際、民主主義の精神であるキリスト教、なかでも無教会がまずもって受け入れるべきだと主張している。同時に矢内原は、天皇が教会に行かずとも、ただ聖書を読むだけで、天皇キリスト教化ひいては日本精神のキリスト教化が進むと期待したのであった。ここからもわかるように、しばしば戦後の進歩的な思想家として捉えられる南原および矢内原は、実のところ、進歩派のなかの保守派、オールド・リベラルなのであった。だからこそ、戦後すぐに人々から支持を得ることにつながったのである。
 南原や矢内原は、大正啓蒙期に思想を育んだ無教会第二世代であったが、戦後には内村にも会ったことがないような第三世代があらわれてくる。それにより、無教会運動は新たな展開をなしとげる。一方では、欧米で聖書学を学んだ関根正雄(1912–2000)によって「無教会の神学」が目指された。もともと無教会主義は神学に対し否定的な態度をとることが多かったが、関根は無教会のセクト化に対する危機感から、無教会を神学的に捉えることで、開かれた論争空間を形成しようと試みたのであった。もう一方では、手島郁郎(1910–1973)の「キリストの幕屋」運動における霊性運動が進められた。手島は聖霊の直接的な働きを強調することで、これまでの無教会とは違った方向性を示した。しかし、その活動は1952(昭和27)年に女性信者が神癒の過程で死亡してしまうという「清瀬事件」にまで発展し、無教会主流派との間に大きな軋轢が生まれることになった。このときに問題となったのは、無教会における正統と異端の境界である。矢内原はその幕屋運動を異端であると断罪したが、ある者を異端であると言うときにその者の正統性の主張することは、反制度主義的な無教会の理念と反する恐れがある。そのため無教会の別の者は矢内原のような仕方ではなく、あくまでその判断が教会のものではなく個人的なものであるとして、幕屋運動を無教会から除外するしかなかったのである。
 1960年代前半になると第二世代の伝道者が相次いで引退し、1961(昭和36)年には矢内原が死亡してしまう。このとき、戦後長らく続いてきたキリスト教知識人の時代が幕を閉じることになる。かつて、普遍性を志向する知識人たちが、キリスト教の普遍性にかこつけて、戦後改革を先導してきた。しかしながら、この時代にはキリスト教の普遍主義はもはや世間には共有されなくなってしまっていた。たとえば、1960年代半ばに丸山眞男(1914–1996)と学問上の師である南原が対談したとき、南原が前提とするキリスト教普遍主義を丸山は理解することができなかった。こうして、1957(昭和32)年時点では3〜5万人いた信徒数も、1966(昭和41)年には1万5千人と大幅に減少し、1970年代には無教会運動は第三世代によって担われていくことになる。