ヨーロッパを地方化する:Chakrabarty "Provincializing Europe"(1992)

 とあるアメリカ史の授業のアサインメントとして読みました。なお、以下の要約は授業での議論やレジュメ担当者のまとめなども参考にしています。

Dipesh Chakrabarty, "Provincializing Europe: Postcoloniality and the critique of history" Cultural studies, 6(3), 1992, pp. 337–357.
のち、Provincializing Europe: Postcolonial Thought and Historical Difference (2000)に"Chapter 1. Postcoloniality and the Artifice of History"として採録

 シカゴ大学歴史学部で教鞭をとるチャクラバーティーは、本論文でヨーロッパ的な「歴史」を強く批判する。これまでの欧米中心の歴史叙述では、たとえインド史を描くときにでも、ヨーロッパ的な概念で語られてきた。しかしながら著者は、彼が「ヨーロッパを地方化する」が呼ぶプロジェクトによって、また別の「歴史」の可能性を提案するのである。
 著者はまず、ヨーロッパのこれまでの研究者が陥っていた「非対称な無知」を指摘する。すなわち、欧米各国がつくりあげた近代化や資本主義といった概念を重視し、第三世界の国々がそれにどのように追いつき、獲得していくかを描くような歴史叙述である。そのため、しばしばそれらの国々の歴史は、「欠如」の歴史として描かれがていた。さらにそこでは、個人や歴史といったヨーロッパ的な概念への獲得あるいは抵抗の歴史が描かれていた。しかし、いくらナショナリストによるヨーロッパ的な個人・時間概念への対抗、あるいはインドの差異やオリジナリティを強調するような語りがサバルタンによって生み出されても、そういった反歴史的な語りは直線的な「歴史」を描こうとするものによって着服されてしまっているのであった。
 それに対し著者が提案するのは「ヨーロッパを地方化する」というプロジェクトである。それはたとえば、著者のようなインド生まれの研究者が、非ヨーロッパのアーカイブズを使いヨーロッパ史を描くような試みによって可能になるかもしれない。またたとえば、単に自由主義的価値、普遍性、理性といった近代的な用語を拒絶するのではなく、そういった概念の獲得がヨーロッパ帝国主義の物語を重要な部分として含むグローバル・ヒストリーの一部分であると認識することで可能になるかもしれない。もちろん、大学および歴史学部というヨーロッパ的な制度のもとにいる以上、ある程度ヨーロッパ的な概念・制度にはコミットせざるをえない。しかしながら、そういった不可能性を抱えつつ、著者はヨーロッパ的なグランド・ナラティブとはまた別の可能性を提示するのであった。