男性による介護から女性による介護へ:柳谷慶子「介護役割とジェンダー」(2010)

 女性史研究の立場から、介護の歴史的な位置づけを検討している柳谷慶子さんの論文を読みました。『近世の女性相続と介護』(吉川弘文館、2007年)では主として近世日本における介護の実態について検討されていましたが、本論では近代日本における介護役割にも言及しており、近世・近代日本における介護の歴史についての簡略な見通しを示されています。

柳谷慶子「介護役割とジェンダー――日本近世から近代へ」赤坂俊一・柳谷慶子(編)『ジェンダー史叢書 8 生活と福祉』明石書店、2010年、240-264頁。

生活と福祉 (ジェンダー史叢書 第8巻)

生活と福祉 (ジェンダー史叢書 第8巻)

 今日では親の介護は女性の責務であると考えられている。しかし、このような介護役割は非常に近代的なものであり、近世日本においては、老親の介護は男性の仕事であると考えられていた。本論文は、近世日本における介護の実態を明らかにすることで、近世から近代の日本において介護役割がいかに変容したかについて検討している。

 江戸時代、貝原益軒の『養生訓』(1713)をはじめとする養生論が人々の間に流布したが、そこでは老人自身の心構えが説かれる一方で、老人を身近で支える家族が知っておくべき事などについても記されていた。近世中・後期においても、老親の介護や看病というのは教訓書などに頻繁にみられるが、ここで注目すべきなのは、そういった書は読者として男性を想定していた点である。江戸時代の男性は、親の介護として、薬や医者を選んだりすることなど多くの規範が求められていた。一方、女性の老親に対する介護の責任は極めて限定的なものであった。そして、このような介護役割の分担とそこで求められる規範は、幕府による褒賞制度においてより明確になる。例えば、18世紀末には、地域の模範となる人物の孝行の褒賞を目的とした『孝義録』がまとめられ、男性による親の介護が多く褒賞する一方で、女性による介護への褒賞は非常に少なかった。
 ではなぜ、この時代の介護役割が男性に求められたのだろうか。第一の理由として、父系男系で継承されたイエにおいて、当主の男性が家族を扶養・保護する責任を負っていたということが挙げられる。このことは、先にみた『養生訓』のなかで、当主の第一の役割を親に孝義を尽くすことが挙げられていることにもみてとれる。第二に、女性を愚者とする観念があったことが挙げられる。女性は愚者として考えられたため、男性は女性に正しい孝行や家事について教え導くべきであるとされていた。そのため、老親の介護においても、女性は男性の副次的な位置づけに留まっていたのである。
 それでは、男性による介護として、具体的にはどのようなことがおこなわれたのだろうか。著者は秋田藩、沼津藩、下妻藩に着目し、それらの藩士が親の看病のため、藩に休暇の願いを出した記録を分析している。その結果、男性の責務として、死にゆく老親を看取ること、あるいは、病気の老親への治療の方針を決めることなどが求められていたことを確認する。もちろん、時間的な制約により、独力での介護が出来なくなるケースも当然あったため、親族に援助を頼むということも男性の重要な仕事であるとされた。

 このように、近世社会では男性を中心におこなわれた介護であったが、近代に入ると介護役割が女性へと転嫁することになる。老親に孝義を尽くした者を表彰した『日本孝子伝』(1936)には、明治・大正・昭和期の善行者が載録されているが、それぞれの時期における女性の割合は、明治期が70%、大正期が80%、昭和期が76%となっており、男性による介護が褒賞されるケースは減少していった。
 ここでもまた、介護役割が女性に転嫁した理由が検討されるが、著者はその最大の理由を近代女子教育であるとしている。つまり、女子教育によって、家庭をおさめ整えることを女性の責務とされ、その一環として老親介護が求められたと考えるのであった。例えば、1901年の女子中等教育に関する施行規則では、育児・看病・伝染病予防・家事整理・経済などとともに養老が、女性の家事として求めらるようになったのであった。こうして、今日まで続く介護役割が固定化されていったのである。

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