医療の正統性と幕府・学統・市場:海原亮「近世都市の「医療」環境と広小路空間」(2005)

 江戸時代の医療の社会史を研究する上で、基礎的な文献である海原氏の論考を読みました。特に、公的医療との関連を意識してまとめました。修論用メモ。

海原亮「近世都市の「医療」環境と広小路空間」吉田伸之・長島弘明・伊藤毅(編)『江戸の広場』東京大学出版会、2005年、131-152頁。

江戸の広場

江戸の広場

 明治新政府は「医制」によって、全国の医師を管理・統制しようともくろんだことは周知の通りである。ここには国家が医師の正統性を決定する権力をもつという、今日では当たり前のようにも思える構図が確認出来るだろう。しかし、江戸時代においては、幕府が医師に対する同様の介入を行うということはなされなかった。その代わりに、医師の正統性を保障するものとして形成されたのが、医師集団内部の学統、および、売薬市場における商業的な論理であった。そして、それら二点の特徴に加え、医師の多様性とその数の増加こそが、18世紀半ば以降に形成される新しいタイプの「医療」の特徴であると著者の海原は説明している。

 まず確認されるのは、江戸時代における公的な医療統制の不在という状況である。1765(明和2)年、多紀氏が神田佐久間町に設立した「医学館」は、のちに官立化されることになるが、その目的を幕府医師の医療水準を高めることにあるとしていた。そのため、江戸という都市全体の医療に対して何らかの貢献を行おうとしたものではなかった。また、1722(享保7)年には小石川養生所が設立されるが、これも貧民対策を主眼とするもので、民衆に対して恒常的な公的医療を目指すものではなかった。つまり、江戸という都市には「医療」を統制する支配構造が備わっておらず、それが最初に述べたこの時代の医療の3つの特徴を生みだしたのであった。
 その特徴として、まず、医師数の増加があげられる。医師を統制するシステムがないこの時代では、医師を標榜する者が多数あらわれていた。例えば、江戸には年季奉公をする下層武士たちが多く滞留していたが、その中には身分的上昇を目指す者がおり、そのために医療を利用したのであった。下層武士たちが行う医療は、漢方薬の処方などではなく、祈祷や信仰、芸能に基づいた行為であった。つまり、公的な医師統制制度がなかったからこそ、このような類の医療行為が暗躍したのである。また、薬種の処方を行う者も医師に限定されているわけではなく、商人などによっても行われていた。このように、江戸時代に「医師」として呼ばれた者はかなり多様であり、当然、「医師」による医療の質の偏差はかなり大きかった。

 先にみたように、江戸時代では幕府が医師の正統性を保障するような制度をもっていなかった。それでは、この時代の医師たちはどのようにその善し悪しが決定されていたのだろうか。その際、著者が注目するのが学統と市場である。学統については、この時代、本道(今日で言う内科)を頂点とするヒエラルヒーが既に形成されており、本道の他の外科・眼科・口科・産科・小児科・針科などは雑科と呼ばれ、本道に比べ軽視されていた。1819-1820(文政2・3)年の医師の『人名録』では本道が全体の8割強を占めており、雑科を行うような医師は低俗であるとされていた。また、医師間の知識の伝達はプライベートな師弟関係に完結し、往々にして秘伝的な側面が強調された。つまり、自らの医療の正統性をその秘匿性によって高めようとしたのであった。
 しかし、学統が定めようとしたこの種の医療の正統性は、民衆に必ずしも広がったというわけではなかった。その代わり、薬種・売薬をめぐる市場の形成がその正統性を担保するものとして広がった。例えば、薬種商人・売薬小売がある特定の場所に集まって、そのブランド価値を高めようとする動きは医療の正統性を形成しようという一つのメルクマールと言えよう。18世紀半ばの売薬の情報が掲載された地誌には、売薬の8割が神田・日本橋地区で販売されていることを示している。つまり、宗教的な霊験の効果を薬種にあわせるべく、薬種を売る場所として神田明神下などの寺院の境内や門前地などが薬種商の間で注目されたのであった。そして、こういった薬種に関する情報は、引札や出版メディアなどを通じて、民衆の間に広まっていく。このように、幕府の限定的な医療政策を後目に、薬種商や民衆が相互に求め合うかたちで、売薬に関する「情報」を流通させていったのであった。

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