医師統制と郷校の役割をあわせもつ施設:下山佳那子「幕末期における郷校の設立」(2011)

 「回顧と展望」『史学雑誌』(2012年6月号)にも紹介されていた江戸時代の医療の社会史に関する研究文献を読みました。近世日本の医療施設について考察するとき、それと藩との関係ばかりに注目するのではなく、民衆がどれほど設立にコミットしたかについての注目を喚起する優れた論文です。こちらも修論用メモ。

下山佳那子「幕末期における郷校の設立――津山藩領内の医学研究場を事例として」『岡山地方史研究』124、2011年、21-39頁。

 郷校とは藩が直接的あるいは間接的に設立・運営に携わった教育施設のことである。石川謙はその先駆的研究において、藩士を教育対象にしたもので藩校の延長にある郷校と、庶民を対象にし民衆の教化を目指した郷校に分類しており、さらに後、津田秀夫は民衆の有志によって設立された民衆を対象とする郷校を第三の類型として付け加えている。
 このように、これまでの郷校研究は、その教育対象者や公的あるいは私的な組織であるかで類別することに主眼をおき進められてきたが、最近はこういった類型に必ずしも分類できない、より複層的な機能をもった郷校の存在に対し注目が集まってきている。例えば、工藤航平による前橋藩の川島書堂という郷校の例は、学文修練の場だけでなく、窮民救恤や地域運営の場として郷校が果たしていた多様な役割を指摘している。本論考はそのような研究動向を踏まえつつ、津山藩領内の「医学研究場」に注目し、医師統制機関と郷校の二つの役割をもった郷校の存在を明らかにしている。

 1860(万延6)年に設立され1868(明治2)年まで続いた津山藩の医学研究場については、医療の社会史研究の観点から、既に岩本伸二や藤澤純子によって研究が行われている。岩本らは、在村医の組織化の契機として医学研究場を捉え、津山藩領内の医師を統制、管理するための医療施設として位置づけた。
 このように藩による医師統制という視点から捉えられた医学研究場であったが、その内実をよくみると、医師統制だけでなく農民の子弟への教育を行う郷校の機能をあわせもった施設であったことがわかる。例えば、医学研究場への出席者の割合は、8割以上が村落指導者を含む農民の子弟であり、医師のは全体の1割にも満たなかった。もちろん、医学研究場では、「医事評義」として医師のモラルの向上を目指す授業が行われていたし、医師開業を願い出る者に対して口頭試問を行うこともあり、医師統制という役割をもっていた。しかし同時に、外部から雇い入れた儒者・林竹山による儒書(『小学』、『孟子』など)の講義や医学講習方による医書(『傷寒論』など)の講義も行われており、郷校としての機能が大いに発展していたのであった。
 ここで注目されるべきは、なぜ医師の師弟への医学教育と、農民の子弟への教育が一つの施設で同時に行われたかと言うことであろう。著者によれば、儒学の講義が、医師の子弟のモラル向上のためにも、農民のの教化のためにも共通して有用であったことから、医学研究場が医師および農民の子弟を対象にすることになったとしている。そしてさらに、藩によって医師の取り締まりをしていた「医師取締方」と、経済的に余裕のあった村落指導者層が共同することで、藩からの支援を受けやすくなることを踏まえ、両者の子弟を対象にした教育施設の設置を企てたとしている。
 このように、幕末期津山藩における医学研究場は、医師統制機関としての役割をもつと同時に、村落指導者層のコミットにより、郷校としての役割をあわせもつ機関となったのである。

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