近世の在村における医師のライフコース:速水融「人々の多彩な生涯」(2002)

 10月に速水融『歴史人口学の世界』(岩波書店、1997年)が岩波現代文庫で復刊されるそうですね。速水氏は日本に歴史人口学を導入し、近世日本の社会史研究の水準を飛躍的に上げた方ですが、同時にその分析手法は医療の社会史研究にも大きな洞察を与えています。そこで、今回はその速水融氏の『江戸農民の暮らしと人生――歴史人口学入門』(麗沢大学出版会、2002年)から、江戸時代の医師がどのようなライフコースを歩んだかを分析した部分(「1節 医師をめざした地主の末っ子とその家族」)を読みました。

速水融「第六章 人々の多彩な生涯」『江戸農民の暮らしと人生――歴史人口学入門』麗沢大学出版会、2002年、174-182頁。

江戸農民の暮らしと人生―歴史人口学入門

江戸農民の暮らしと人生―歴史人口学入門

 江戸時代、医師はどのような人物がなり、どういったキャリアを築いていたのだろうか。江戸時代の医師は基本的に代々の医家を引き継ぐものであるが、ある時期から村の有力者の子息が医業修行をし、医師開業をすることもあった。そういった場合は特に家の次男・三男が多く、本章で注目されている利三郎もまたその例に漏れなかった。
 1818(文化15)年、利三郎は美濃国西条村最大の地主で、代々庄屋をつとめる権兵衛家に生まれた。6人兄弟の末っ子で、上には長男木多助(18歳)、長女せき(15歳)、次女こま(12歳)、三女ふみ(9歳)、次男益次(7歳)がいた。西条村に関する100年にわたる宗門人別改張からは、この一家が後にどのような人生を歩んだかがつぶさに知ることが出来る。例えば、利三郎が生まれた翌年、家は長男木多助に継がれ、木多助は19歳の若さで村の庄屋となっている。一方、次男益次は1839(天保10)年に28歳となったとき、同じ西条村の藤三郎後家方に入り、その家を継承したのであった。
 地方の次男・三男は若い頃に出稼奉公に出されることが多く、この頃の西条村でも在村人口の3分の1にあたる100人前後の男女が都市に出稼ぎに行っている。しかし、権兵衛家の三男・利三郎は1835(天保6)年に18歳となったとき、驚くことに都市へ出稼ぎに出るのではなく、中島郡須賀村の医師・後藤里伯に弟子入りしたのであった。結局、彼のもと5年間の医業修行をおこなったが、その後、1840(天保11)年にはさらに高度な医療技術を身につけるべく、当時医学の中心地であった京都にのぼり医師・小山敬介のもと2年間の修行を行っている。1842(天保13)年には帰村し、1845(弘化2)年には分家し、「脩安」と名乗り独立開業した。その後妻を迎え、医業を続けていたが、1863(文久3)年に46歳の若さで脩安は死亡し、その後、家がどうなったのかは詳らかではない。

関連文献・リンク

医療の正統性と幕府・学統・市場:海原亮「近世都市の「医療」環境と広小路空間」(2005) - f**t note
江戸における医師の多様性についてはこちらにまとめています。


大正デモグラフィ 歴史人口学でみた狭間の時代 (文春新書)

大正デモグラフィ 歴史人口学でみた狭間の時代 (文春新書)

速水融氏とその学生の方との共著で、歴史人口学の観点から大正期の日本の実態を明らかにしています。医学史と歴史人口学の関係を簡潔に紹介した、鈴木晃仁先生による優れた紹介もご一緒に。
http://blogs.yahoo.co.jp/akihito_suzuki2000/folder/361311.html?m=lc&p=2