寛政改革と藩校:加藤民夫「明徳館の学統をめぐる諸問題」(2002)

 秋田藩の藩校・明徳館についてまとめた文献を読みました。修論用メモです。

加藤民夫「明徳館の学統をめぐる諸問題――秋田藩学館制度の一側面」『秋大史学』48、2002年、1-14頁。

 江戸時代、藩は藩校を設立することによって藩士の教育をおこなおうとした。鈴木博雄は藩校の設立時期によって、第1期:宝暦期以前(〜1750年;25校)、第2期:寛政改革期(1751-1803年;84校)、第3期:幕末改革期(1804-1867年;105校)、第4期:幕末崩壊期(1868年〜;40校)に分類しているが、1789(寛政元)年に設立された秋田藩の藩校・明道館は、この分類では第2期の寛政改革期にあたる。本論は、このような全国的な藩校設立の動向を踏まえた上で、秋田藩の藩校・明徳館(明道館)の特徴・機能をまとめている。

 まず、秋田藩で藩校が設立されるに至った社会的背景が検討されているが、特に重要なのが明和・天明期(1764-1789年)における藩財政の窮乏化である。度重なる凶作の被害によって、毎年平均11万石の損毛が秋田藩から幕府に報告されており、「卯年飢渇(うどしのけかち)」と呼ばれる1783(天明3)年は19万石余り損毛している。また、江戸藩邸(1774(安永3)年)および久保田城(1778(安永7)年)の相次ぐ火災に見舞われており、財政は窮地に達していた。秋田藩はそのような事態に対して、家老の更迭を行うなどによって現状打開を試みるも、結局未熟な官僚機構のもと、混乱が助長されるばかりであった。
 そんな中、1783(天明3)年に疋田定常が世子次郎君(のちの9第藩主義和)の傳役となり、その後、町年寄に仲間入りしたことにより、疋田定常を中心とした藩政改革が試みられる。1785(天明5)年に当時11歳の義和が藩主に就任すると、政治の実権は前藩主の弟・義方と疋田定常へと移り、改革が本格化していく。そしてその一環として、1789(寛政元)年に藩校・明道館が設立されることになる。なお、1811(文化8)年に明道館は明徳館へと改称されている。
 藩校・明道館(明徳館)は、上でみた第2期の藩校の特徴を多分に有したものであった。すなわち、藩政改革の重要な政策として藩校設立を位置づけ、実学を重視するといった特徴は、秋田藩の場合でも確認出来るのである。例えば、1793(寛政5)年に藩主・義和が自ら示した学館御条目では、私塾などの個々の勉学では絶対に養成することができない、「時務」に通じた人材を生み出すことを最大の目的としている。その際、折衷学の山本北山に藩校建学の事にあたらせていることからもわかるように、秋田藩校においても「経済有用の学」が重視された。また、藩校での授業形態は、講釈(講義)・会読(演習)・輪講(輪読)の三つが中心であり、これも第二期の藩校の特徴と一致している。
 
 次に、藩校における全国的な学統の変化と、秋田藩での事例が検討されている。石川松太郎の研究によれば、全国で藩校が設立されてから、招聘された学者の学統は以下のような推移をたどっている。まず、宝永以前(〜1710年)は朱子学が圧倒的に支配的で、全体の8割以上を占めている。次に正徳〜天明期(1711-1788年)には古学が躍進し、朱子学が5割、古学が4割程度を占めるようになる。さらに寛政以降(1789年〜)は折衷学派が伸び、朱子学5割、古学3割、折衷学2割弱となる。そして、天保以降(1830年〜)は古学が衰退し、朱子学6割、折衷学2割、古学1割強、陽明学1割弱となる。
 以上を踏まえ、秋田藩藩校における学統の変化を追ってみると、それが全国的な動向とかなりの程度一致していることが確認出来る。1758(宝暦8)年に、七代藩主義明が学者養成の候補として、朱子学を学統とする町医・中山菁莪を登用している。1787(天明7)年には古義学の村瀬栲亭を召し抱え、疋田定常と協働して藩政にとりかかった。しかし、1790(寛政2)年、江戸で藩主・義和が折衷学派の山本北山からの講義を聞いて以来、彼は北山を重用し、藩政の中心は北山へと移っていく。以上のように、藩主義和と疋田定常が藩政改革をなすにあたって登用した学者の推移は、朱子学から古学、古学から折衷学という全国的な動向と一致している。ただし各学統が順に取って代わっていったわけでなく、学館祭酒という学館最高の身分に中山菁莪がついていたことからもわかるように、あくまで朱子学を基調としながらも、古学と折衷学との間で適度な関係性を構築していたのであった。

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