日本と外国を結びつけようとする宣教医療:田中智子「明治初年の神戸と宣教医ベリー」(2003)

田中智子「明治初年の神戸と宣教医ベリー――医療をめぐる地域の力学」『キリスト教社会問題研究』52、2003年、31–57頁。
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※ のち、田中智子「第一章 神戸における近代医療の揺籃とJ・C・ベリー来港」『近代日本高等教育体制の黎明――交錯する地域と国とキリスト教界』思文閣出版、2012年。

近代日本高等教育体制の黎明―交錯する地域と国とキリスト教界

近代日本高等教育体制の黎明―交錯する地域と国とキリスト教界


 19世紀終わりの日本は、近代的な医療制度が徐々に形成されていった時期にあった。各自治体は医学の西洋化を進めるためにも、お雇い外国人などを上手く制度の中に組み込み、活用しようとしていた。一方、居留地などではあくまで外国人のための医療を充実させることを目的として、それらとは独立に医療環境をつくりだそうとしていた。本論文はこれら地方行政府と居留地との間の医学に対する思惑の違いを、神戸を事例に描き出そうとするものである。このとき、神戸で1872年から1893年にかけて医療活動をしたアメリカ人宣教医師ジョン・C・ベリー(1837–1936)が、県による兵庫県病院および居留地による国際病院とどのような関わりをもったかに着目することで、それぞれの医療に対する意識の違いを明らかにしようとしている。
 ベリーが来る前の神戸では、地方行政府と居留地の間で医療をめぐる協働が模索されていた。一方の県側では、当時の外国官判事・兵庫県知事の伊藤博文が1869年に兵庫県病院を設立し、日本人だけでなく外国人を対象にした医療提供を開始した。その医事総督(Medical Director)にはアメリ東インド艦隊の元軍医で、横浜居留地で診療をおこなっていたアメリカ人医師ヴェダーが就任していたが、諸々のトラブルによりすぐに解雇されてしまった。これをきっかけとして、日本人医師招聘の思いを強めた兵庫県は、当時西日本で最高水準にあった官立大阪医学校から篠原直路を兵庫県病院に派遣してもらい、政府への依存を強めていった。一方の居留地では、兵庫県病院の設立によって外国人にもアクセス可能な病院を手に入れることができたが、その質の低さが問題化され、居留地自前の病院をつくろうという機運が高まった。一時期は日本側との協働によって設立することも討議されたが、地方行政の鈍い動きにしびれを切らした居留地側は、1871年に単独で神戸に外国人のための国際病院を創立することになる。なお、設立の際の財源は居留地の通常の財源ではなく、病院創設のチャリティ基金に依っており、その後、継続的に寄付金を募ることが可能となったので、病院経営も安定化していくことになった。
 地方行政と居留地の協働が失敗に終わり、それぞれ独立に病院経営を進めるようになったが、1872年に来日したベリーは両病院と少なからぬ交流をもち、再びの協働に向けて尽力した。まず、神戸の国際病院において、同年に医事監督の後任探しがちょうど進められていたこともあり、ベリーが新たな医事監督に就任することになった。このとき、ベリーの就任に大きく貢献したのは、中日貿易商会の神戸支店長であり、国際病院の理事をつとめていたアメリカ商人フォーブスであり、宣教活動としてのベリーの活動を大きくバックアップしたのであった。医事総督となったベリーであったが、彼は居留地側だけでなく日本側からも資金を調達することで、国際病院に教育機能をもたせ総合病院化するという計画を企てている。しかしながら、ヴェダーとの苦い思い出がある兵庫県側はそれを却下し、それを受け1873年5月にベリーは国際病院を辞することになった。その後、ベリーは地元の日本人医師らと協力し、民間診療所でその病院構想の続きを試みようとしたのであった。
 国際病院を離れたベリーであったが、その次には兵庫県病院との関わりをもつようになっている。というのも、兵庫県側は兵庫県病院の改組を進めようとしており、その担い手としてベリーに白羽の矢を立てたのである。兵庫県病院長・西春蔵は、ベリーの民間診療所が兵庫県病院の患者を奪っているという嫉妬が日本人の間に生まれていることを感じ取り、ベリーを兵庫県病院へ登用しようと試みた。これに対しベリーは、病院経営にかかり西とベリーが裁量権をもつこと、また、あくまで自らの労働は貧しく苦しむ日本人のための無償の贈与であることなどを条件に、週に三回ほど兵庫県病院で働くことになった。特に後者については、かつて兵庫県がヴェダーと金銭トラブルでもめていたことに鑑みると、県側にとってもありがたい提案であったと考えられる。ベリーが新たな舞台で進めたのは、国際病院のときに頓挫した教育制度の整備であり、また、三田や明石などの周辺で地域医療を進める上での病院のセンター化であった。しかしそのなかで彼が最も精力を傾けたのは他ならぬ伝道活動であった。一時期、アメリカンボード側は彼が伝道よりも医療に傾倒してしまうのではないかと不安視することもあったが、ベリー自身は自らが医師であり宣教師であることに自覚的であったのである。実際、彼はドイツ流医学の影響で日本人医学生無神論に傾いていることを懸念し、キリスト教的な医学をさらに振興しようとしたのであった。