栢木まどか「日本統治期の台湾における都市計画・建築史」(2013年5月18日、於:PORTA神楽坂)

 「帝国日本の知識ネットワークに関する科学史研究」の研究会に参加してきましたので、簡単に参加メモを。

栢木まどか「日本統治期の台湾における都市計画・建築史――日本植民地建築史研究のレビューをふまえて」帝国日本の知識ネットワークに関する科学史研究・第3回研究会(人類学・民俗学班)、2013年5月18日、於:PORTA神楽坂
https://sites.google.com/site/imperialsciences/report/20130518

 報告者の栢木まどかさんは、建築学がご専門で、最近では植民地台湾の建築の研究をおこなっているそうです。植民地の建築史研究というトピック自体はまさに植民地科学史の研究領域の一つですが、これら研究は歴史研究者を中心に進められてきました。そのため、いつもの科研報告会とは異なり、歴史学ではなく建築学の観点からの報告でしたので、よりテクニカルな部分にまで話が及び、議論の絶えない研究会となりました。
 本報告は大きく分けて二部構成となっておりました。第一部は、植民地台湾を中心とした東アジアの建築研究のレビューです。日本の建築学者による台湾建築の研究は、早くは佐野利器の「台湾震災談」(1905)や安江正直の「台湾建築史」(1909)などがあります。そこでは、同じ地震国である台湾の建築から、日本の建築にも活かせるところを探すことを目標として進められたのでした。このようなスタンスは、同時代の朝鮮や中国の建築研究とは少し異なっていました。たとえば、中国の建築については伊東忠太の「北京紫禁城建築談」(1901)や大熊喜邦の「満州の住宅」(1906)などがありますが、そこでは日本建築の源流を探ることを目的として研究が進められたのでした。同じく朝鮮でも、今和次郎の「朝鮮の民家」(1923)など、中国ほどではないにせよ、日本建築の源流探しの一環としておこなわれたのでした。時代が下ると、それぞれ地域別に、『台湾建築会誌』(1929年創刊)、『満州建築協会雑誌』・『満州建築雑誌』(1921年創刊)、『朝鮮と建築』(1922年創刊)がつくられ、その建築に関する知識がより集められることになりました。
 第二部は、具体的な建築様式に着目して、植民地台湾の建築の紹介がおこなわれました。そして、その建築様式の変遷を通じて、総督府がある伝統的な建築は退け、また別の伝統的な建築は近代的なそれへと作り替えようとしたことが確認できます。たとえば、鹿港(ルーカン)の「不見天」という伝統的な建築様式は、複数の家が一つの屋根のもとに構成され、家毎の境界があいまいなものでした。また、家が密集し、採光も不十分なため、空気環境・衛生環境が悪いことが問題化されました。そこで総督府は、それらを衛生的にするために、「亭仔脚」へと再編することにしました。この建築様式もまた台湾に伝統的なものでしたが、こちらの伝統は近代的なものへと作り直されたのです。その建築とは、高温多湿の台湾においては重要な通気性の高い構造をもち、一つ一つの家の境界がはっきりしたものなので、衛生的であるという総督府の目的とも合致していたと考えられます。
 このように、当時の建築学者たちは、台湾と朝鮮・中国では違った問題意識のもと研究を進めていることがわかります。つまり、植民地建築史と一口にいっても、地域によって日本側のねらいが異なっていたことを知ることができました。また、総督府が一から近代的な建築をつくるのではなく、伝統的な建築を再編しようとしたことも興味深いところです。ある伝統を不衛生的であるとし、またある伝統を衛生的であるとすることで、より効率的に「近代化」を進めようとしていたと考えることができるかもしれません。

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