牛痘法前後における村の疱瘡対策の変化:東昇「近世肥後国天草における疱瘡対策」(2009)

東昇「近世肥後国天草における疱瘡対策――山小屋と他国養生」『京都府立大学学術報告(人文)』61、2009年、143–160年。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110008138630
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 これまで疱瘡に注目した歴史研究は、1849(嘉永2)年に牛痘法が日本に普及していく過程を論じるものが多かった。しかしながら、それより前に人びとがどのように疱瘡に対応したかを検討した研究はそれほど多くない。本論文は、文化4(1807)年から文化5(1808)年にかけて天草郡の高浜村で流行した疱瘡に対し、同村がどのような対策をおこなったかを明らかにするものである。その際、史料として同村庄屋である上田家文書が用いられている。さらに本論文は、種痘法導入以降、そういった疱瘡対策が変化していく様子も指摘している。
 江戸時代の疱瘡対策として最も一般的であったのは、罹患者を山小屋に隔離する方法で、これは全国的に確認できる。実際、文化4(1807)年に高浜村で疱瘡が流行したとき、最初の患者が発生してからわずか数日で約40人の罹患者が山小屋へと送られている。その後、上田家7代目の宜珍は山小屋に医師を派遣するなどし、医師も必要な物資を山小屋へ送ってくれるよう手紙を出している。それから数ヶ月経って、平癒した患者たちは村に戻ったが、不幸にも再び村内で疱瘡の流行が発生した。このときの村の対応は、彼らを今一度山小屋へ送ることではなく、金銭的援助のもと、他国に養生に行かせるという決断だった。なかには稀に帰国するケースもあったが、基本的には彼らがその後どうなったかは不明で、そういった危険因子を追放することで高浜村は疱瘡流行を収束させようとしたのであった。
 牛痘法が日本に伝わった翌年には、天草でも種痘が実施され普及していったが、それによりこれまでの疱瘡対策も変化することになった。たとえば、文久2(1862)年には天草郡の会所詰大庄屋が、疱瘡にかかった者はこれまでのように山小屋に送るのではなく、各家で介抱すべきであるという評決をおこなった。その理由は、一方では種痘が普及したことがあげられ、もう一方ではかねてより問題となっていた山小屋や他国養生にかかる費用がかさんでいたことがあげられている。後者の問題は、疱瘡対策の費用負担をめぐって既に天保期頃より問題になっていたが、種痘普及を契機に、山小屋や他国養生という旧来の疱瘡対策は廃止され、自宅養生が奨励されていくことになったのである。

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