理想世界という極の途上としての文明:苅部直「文明開化の時代」(2014年)

苅部直「文明開化の時代」『岩波講座 日本歴史 15 近現代1』岩波書店、2014年、241–267頁。

近現代1 (岩波講座 日本歴史 第15巻)

近現代1 (岩波講座 日本歴史 第15巻)

 「文明開化」の一般的なイメージといえば、それはまずもって「西洋化」であると捉えられることが多い。たとえば、福沢諭吉の『西洋事情 外編』(1868年)は、英国のジョン・ヒル・バートン『政治経済学』(1852年)の議論を参考にして「文明開化」という言葉を用いており、その言葉を明治初期に流行させる契機となった。ここで著者は、文明開化という言葉を、文明と開化という二つに分けて分析を加えることで、その言葉が必ずしも「西洋化」とイコールではないことを指摘している。
 まず、「文明」という言葉は、『政治経済学』に出てくる"Civilization"という用語を福沢が訳出したものである。ここで注意しなくてはならないのが、福沢がそれを西洋の産物として捉えていない点、さらに、それを手放しに褒め称えてはいない点である。事実、この言葉自体は儒学経書に由来する。福沢は洋の東西を問わず、文明を人間の知恵と徳の両面が向上する過程であるとみなしていた。たとえば、文明が進んでいるとされる西欧においても、現に戦争は絶えずおこなわれているのであり、西欧もまた物質的な向上だけでなく、道徳的な向上がさらに必要だと福沢は主張する。そのため、「文明」という観点からは、西洋も日本(そして中国・朝鮮)もともに、世界平和という理想世界の極度への発展の途上に過ぎないと捉えられるのである。
 一方、「開化」という言葉もまた明治初期には一般庶民の心を捉えており、とくに洋学派知識人によって"Civilization"という言葉と重ね合わされながら好意的に受け入れられていった。たとえば森有礼は、開化を人間の知恵の活用によって生活がより便利なものになっていくものとして捉えている。しかし、文明と開化を主に物質的な充足という点のみによって捉えられてしまう風潮を、おそらく福沢は危惧していた。なぜなら、福沢は文明を知恵だけでなく徳の向上であると定義していたのであり、文明の極度に達するためには知識の発展と同時に道徳心の向上も目指さなくてはならないと考えていたからである。そのためか、福沢は『西洋事情 外編』では「文明開化」という言葉を用いていたのに対し、『文明論之概略』(1875年)では文明という言葉を開化という二語から引き離して用いている。このとき福沢は、開化という物質的な側面ばかりを強調する世間に対し、文明という言葉を用いることで、知識と道徳をともに向上させることの重要性を強調したかったのかもしれない。

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日本政治思想史―十七~十九世紀

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第115回日本医史学会学術大会(2014年5月31日–6月1日、於:九州国立博物館)

 第115回日本医史学会学術大会に参加して参りました。今回の大会は、先日九州大学を退官されたヴォルフガング・ミヒエル先生を会長に、多くの報告がなされました。以下に、いくつかの報告について簡単に紹介を。なお、以下の要約は、当日のTwitterでのまとめに少し手を加えたものです。

第115回日本医史学会学術大会、2014年5月31日–6月1日、於:九州国立博物館

・安西なつめ「ニコラウス・ステノによる脳の解剖学講義――17世紀の解剖学への批判と提言」

 しばしばデカルト批判の部分が注目されるステノの解剖学講義であるが、実際のところ、ステノはデカルト個人を攻撃したというより、当時の解剖学のあり方全体を批判し、解剖学という分野のあるべき姿を提示しようとしていた。ステノは先人が書物の知識の確認するだけで解剖学を研究していたことを批判した。代わりに採用すべき方法として、自身の解剖による詳細な観察・仮説と経験の区別・解剖方法の変更・他の動物での確認という4つの方法を提示したのであった。

・柳澤波香「エヴェリーナ・ロンドン小児病院の設立について」

 オーストリアのフェルディナンド・ロスチャイルドは、1866年に妻・エヴェリーナを鉄道事故で死亡したことを受け、妻の名を関した小児病院を設立した。ロンドンブリッジ近くの貧困地区に設置されたこのボランタリー・ホスピタルは、(1)複数の寄付者によるのではなく、ロスチャイルド一人によって設立されたこと、(2)既存の施設を病院にあてるのではなく新築でつくられたこと、という二つの点で他のボランタリー・ホスピタルとは異なっていた。この病院では、当時有名であった医師も多く診療にあたったという。その後、1948年のNHS施行にともない、近隣のガイ病院に統合され、エヴェリーナの名が病院からなくなった。しかし、2005年にエヴェリーナ・ロンドン小児病院が再設立され、慈善の精神を引き継いだ病院が今日復活したのであった。

・香戸美智子「英国の輸血機構と血液型群の研究について」

 1920年代イギリスにおいて輸血に関する組織が設立されはじめた。その先駆者Percy Lane Oliverは、1921年人道主義にもとづき輸血に関するボランティア組織を設立した(なお、1920年代のアメリカでは血液の売買も進んでいった。そして、1970年代のアメリカでは、売血から献血への組織づくりが進められた)。戦間期・1930年代に、J.B.S. Haldaneらによって血液型群の研究が進み始める。1930年代後半にはDame J.M. Vaughanが英国の輸血組織を発展させた。その発展の背景には、保存血の登場によって、一般市民への血液提供ができるようになったことも大きかった。その後、血液貯蔵施設がロンドンにもつくられ、ロンドン大空襲の際には多くの人命を救った。なお、血液型を民族と関連づけようとする研究もこの時期に進められた。

・町泉寿郎「海上随鴎(1758〜1811、稲村三伯)の医書について」

 『洋注傷寒論』(写本、カリフォルニア大学サンフランシスコ校蔵)をはじめとする海上随鴎の医書は、人体部位をあらわす特異な作字を多くおこなっていたという特徴を有している。随鴎は西洋医学を単に紹介するのではなく、それと漢方医学を折衷しようとこころみていた。このやり方は、同時代の杉田玄白らのやり方とはかなり異なるものであった。

・アンドリュウ・ゴーブル「桃山時代の家庭医学:本願寺西御方(1562–1616)を例にして」

 本願寺西御方を治療した医師の数は8人いた。専任医師は山科言経で、25年間にわたってほぼ毎日往診している。その他には曲直瀬玄朔・正琳の名もあったようである。その西御方にみられる、桃山時代の家庭医学の特徴はどのようなものであったのだろうか。著者が言うには、その最大の特徴は「自療」(自分で治療をおこなう)であり、自療には以下の3つの特徴があった。(1)患者は自分の病歴を記録し、医師に提供しており、その記録はメモ程度のものから詳しい目録まで様々であった。またその記録は、西御方自身に関する病歴録だけでなく、子ども・乳人・女中のものも含まれていた。(2)薬については、第一に処方名を知ることで、病名に応じて薬を服用していたこと、第二に自分の薬で自分で調合・製薬していたこと、第三に生薬を購入していたようである。(3)薬のなかでも「持薬」が家庭医学においてもっとも特徴的であった。「持薬」とは、専任医師が患者に、普段の体調や持病を管理するために常備した薬であった。

・大道寺恵子「中国医学「近代化」の試み「蘇州国医医院(1939–1941年)の事例を基に」

 1939年、中華民国維新政府下で陳則民が蘇州国医医院という病院を設立した。その病院には医師・看護師あわせて30人ほどが勤務しており、その入院患者の男女比は8.5:1.5であった。中華民国維新政府は、貧民に施療すること、および衛生防疫の補助としての機能すること、をその病院に期待していた。しかし、蘇州国医医院の史料をみると、その病院では必ずしもそういった機能が果たされていたわけではないことがわかる。第一に蘇州国医医院の入院患者は、そのほとんどが働き盛りの男性であったし、警察関係者・給与所得者が多かった。その背景には、薬価の負担が高かったことなどがあげられるだろう。第二に、記録からは衛生行政の補佐に関する記述はほとんどみられない。入院患者の記録から他にわかることは、二週間ほどの短期入院が多かったこと、傷寒論を重視しながらも西洋の診断名が比較的多かったことなどがあげられ、後者については医学史研究でしばしば議論されるMedical Pluralismという観点からも議論できるかもしれない。

・小田なら「ベトナム南北分断期(1954〜1975年)南北ベトナムにおける伝統医学の制度化」

 現代ベトナムは南北分断期における北ベトナムの流れをくむため、ベトナム医療史では南ベトナムの動向が軽視されがちであった。ベトナム医療史において伝統医学の位置付けが議論されるときも、南ベトナム医療史は偏った見方で論じられてきたのである。たとえば、ベトナム医療史ではしばしば、北ベトナムが伝統医学を公的医療制度に組み入れることに成功したのに対し、南ベトナムは西洋医学(とりわけアメリカによる西洋医学)になびき、伝統医学を排除しようとしたと言われる。実際、北ベトナムでは早くは1957年から伝統医学を国の医療制度のなかに取り入れており、伝統医学は医療の選択肢の一つとして認識されていた。しかし北ベトナムと同様に、南ベトナムもまた、ある時期は伝統医学をなんとか取り入れようと試みていたのである。たしかに分断期がはじまった頃は、南ベトナムは伝統医学を限定的にとらえていた。つまり、1943年にフランス植民地政府が出した布令を継承したのである。しかし1960年代に入ると、南ベトナムでも伝統医学の是非の議論が進み、1970年代には伝統医学の「科学化」が叫ばれるようになったり、ベトナム伝統医学の祖を顕彰したりするようになっている。つまり、南ベトナムでも伝統医学との共存ははかられていたのであって、この側面はベトナム医療史ではほとんど注目されてこなかったのであ
る。

南北戦争による奴隷解放と世界的な綿花産業の成立:Beckert "Emancipation and Empire"(2004)

 とあるアメリカ史の授業のアサインメントとして読みました。なお、以下の要約は授業での議論やレジュメ担当者のまとめなども参考にしています。

Sven Beckert, "Emancipation and Empire: Reconstructing the Worldwide Web of Cotton Production in the Age of the American Civil War", The American Historical Review, 109(5), 2004, pp. 1405–1438.

 アメリカ史研究では、南北戦争が国内に与えたインパクトの大きさは自明視されているにもかかわらず、国外にどういった影響を与えたかについては比較的検討されることが少なかった。そこで著者は国内外における綿花生産を事例として、この戦争の前後でその活動がアメリカ一国内の事象から、世界規模なものへと変容していくことを描き出している。
 ヨーロッパでは、奴隷制下で生産されていたアメリカ南部の綿花に大きく依存していたが、南北戦争を機にその調達が困難になった。著者はこれを「綿花飢饉 cotton famine」と呼ぶ。そのため、各国の綿花商人・製造業者は、当初南部連合国軍への支持を表明した。しかしながら、綿花生産が必ずしも奴隷の労働力を必要とせず、アメリカ国外でも安価な綿花が生産できることがわかると、彼ら商人たちは南部の独立は世界経済に打撃であるとして懸念を示すようになり、北部連邦軍を次第に支持するようになった。実際、北部連邦軍も海外での綿花栽培奨励を表明するなどして、南部連合国軍を支持していた綿花関係者たちを取り入れようとしたのである。こうして、世界では新たに、インド、西アフリカ、トルクメニスタン、ブラジルといった国々が綿花を栽培するようになった。南北戦争後の綿花市場は、奴隷制によらない労働形態や国家による介入などの新たな特徴をもつようになっていった。そしてかつての綿花生産国アメリカは、イギリスにつぐ世界第二位の綿花工業国へと変貌を遂げたのであった。

ヨーロッパを地方化する:Chakrabarty "Provincializing Europe"(1992)

 とあるアメリカ史の授業のアサインメントとして読みました。なお、以下の要約は授業での議論やレジュメ担当者のまとめなども参考にしています。

Dipesh Chakrabarty, "Provincializing Europe: Postcoloniality and the critique of history" Cultural studies, 6(3), 1992, pp. 337–357.
のち、Provincializing Europe: Postcolonial Thought and Historical Difference (2000)に"Chapter 1. Postcoloniality and the Artifice of History"として採録

 シカゴ大学歴史学部で教鞭をとるチャクラバーティーは、本論文でヨーロッパ的な「歴史」を強く批判する。これまでの欧米中心の歴史叙述では、たとえインド史を描くときにでも、ヨーロッパ的な概念で語られてきた。しかしながら著者は、彼が「ヨーロッパを地方化する」が呼ぶプロジェクトによって、また別の「歴史」の可能性を提案するのである。
 著者はまず、ヨーロッパのこれまでの研究者が陥っていた「非対称な無知」を指摘する。すなわち、欧米各国がつくりあげた近代化や資本主義といった概念を重視し、第三世界の国々がそれにどのように追いつき、獲得していくかを描くような歴史叙述である。そのため、しばしばそれらの国々の歴史は、「欠如」の歴史として描かれがていた。さらにそこでは、個人や歴史といったヨーロッパ的な概念への獲得あるいは抵抗の歴史が描かれていた。しかし、いくらナショナリストによるヨーロッパ的な個人・時間概念への対抗、あるいはインドの差異やオリジナリティを強調するような語りがサバルタンによって生み出されても、そういった反歴史的な語りは直線的な「歴史」を描こうとするものによって着服されてしまっているのであった。
 それに対し著者が提案するのは「ヨーロッパを地方化する」というプロジェクトである。それはたとえば、著者のようなインド生まれの研究者が、非ヨーロッパのアーカイブズを使いヨーロッパ史を描くような試みによって可能になるかもしれない。またたとえば、単に自由主義的価値、普遍性、理性といった近代的な用語を拒絶するのではなく、そういった概念の獲得がヨーロッパ帝国主義の物語を重要な部分として含むグローバル・ヒストリーの一部分であると認識することで可能になるかもしれない。もちろん、大学および歴史学部というヨーロッパ的な制度のもとにいる以上、ある程度ヨーロッパ的な概念・制度にはコミットせざるをえない。しかしながら、そういった不可能性を抱えつつ、著者はヨーロッパ的なグランド・ナラティブとはまた別の可能性を提示するのであった。

患者の意向に規定された18世紀イギリス医療:Jewson "Medical Knowledge and the Patronage System in 18th Century England"(1974)

 とある医学史のゼミのアサインメントとして、医者と貴族の関係性に注目し、当時の医療について論じた文献を読みました。

N.D. Jewson, "Medical Knowledge and the Patronage System in 18th Century England," Sociology, 8, 1974, pp. 369–385.

 著者のジューソンは、18世紀イギリスにおいて発展した医学理論が当時の医師と貴族との関係性によって大きく規定されていたと指摘している。すなわち、疾病分類や診断法、病理学投薬など様々な場面において、過度なほど患者の意向を踏まえた医療が発展したのである。さらにジューソンは、マルクス主義科学史観に基づき、イギリスにおいて医学の科学化を遅らせた要因としてパトロンから医者に対するプレッシャーがあったと指摘している。
 まず、当時のイギリスにおける医師と貴族の間の非対称的な関係性が指摘される。医師の身分は、内科医・外科医・薬売りの三つに分類され、最も地位の高い内科医はジェントリであることが多かった。その内科医はジェントリとして自らの地位を保障するために、自分よりさらに身分の高い貴族階級の患者を獲得することに奔走していた。当然、医師は自らの地位が脅かされるのを恐れて、自分より身分の高い患者、すなわち貴族の気持ちに即した医療行為をおこなった。たとえば、まずはこの時代の疾病分類は、患者が訴える症状に基づいたものがとくに発展していった。次に診断法については、患者が言うままに、精神的な不調と身体的な不調を区別しない一元論的な診断がしばしばおこなわれた。その結果、この時代には心気症などの心因性の疾患として診断されることが多くなった。さらには病理学においてもまた、疾病の病因を身体組織に求めようとするような傾向はあらわれず、患者の見立てにあうような推測的な病理学が発展した。最後に治療の場面では、患者からお金をもらうことを正当化するために、ただ単に患者の自然治癒を待つのではなく、患者身体に積極的に介入する英雄的な治療法がおこなわれた。
 さらにジューソンは、18世紀のイギリスの医師たちが貴族階級の患者の影響を強く受けてしまっていたがために、医学の科学化を進展させることが出来なかったと指摘する。たとえば、19世紀初頭のフランスでは病理解剖学による医学の科学化が進められつつあったが、イギリスでは解剖学が医師の関心を集めることはなかった。というのも、当時のイギリス大衆は解剖という行為に対して忌むべき感情を抱いており、それに関わる医師もまた同様の感情をもって捉えられる恐れがあった。そのために、患者側からの評判を大事にするイギリス人医師にとって解剖は避けるべきことであった。その他にも、医師間の苛烈な競争が、自分の開発した医療技術を他人とは共有しないという、科学の公開性と対立する事態につながったし、そういった秘匿性のために、知識を共有するような医学者組織が設立されることもなかった。結局のところ、医師たちが貴族の機嫌を取らなくてはならなかったのは、当時の医師のキャリアが関係していた。すなわち、18世紀には患者が医師の良し悪しを判断するとき、その医師の立ち居振る舞いなどの個人的な特徴を大いに参考にしていた。というのも、この時代には医師の質を保証するような機関がなかったために、患者は学会などの権威に基づいて医師を選択することができなかったのであり、医師もまた自らを積極的に患者に売り込まざるをえなかったのである。

医学史の方法論・アイデンティティの複数性:Huisman & Warner “Medical Histories”(2004)

 とある医学史のゼミのアサインメントとして、医学史の概説書の序論を読みました。

Frank Huisman and John Harley Warner, “Medical Histories,” Frank Huisman and John Harley Warner, eds., Locating Medical History: the Stories and their Meanings, Baltimore: Johns Hopkins University Press, 2004, pp. 1–30.

Locating Medical History: The Stories And Their Meanings

Locating Medical History: The Stories And Their Meanings

 医学史にはこれまで一枚岩の方法論があったわけではない。本書の編者であるユイスマンとワーナーは、医学史を学問領域(ディシプリン)としてではなく分野(フィールド)と捉えることで、医学史が特定の時代や場所において、さまざまに活用されてきたことを明らかにする。医学史に一つの方法論やアイデンティティを求めるのではなく、それらの複数性を包摂するように認めることが、医学史という分野を実りあるものにすると言うのである。編者らは直線的で単一の医学史のストーリーを描くことを否定する。代わりに、医学史が18世紀末のドイツにはじまり戦間期に北米に伝わっていくのなかで、さまざまな方法論や目的が追求されていたことを示そうとする。
 まず、19世紀のドイツにおいて、医学史に教育目的と研究目的を見いだした二人の医師が紹介される。前者は、医学の歴史は医学生が医師として市民の義務を知るためのよき教材であるという考えである。この見方を提示したのは、ハレの医師であり植物学の教授であったKurt Sprengel(1766–1833)であり、彼は医学史創立の父とも知られている。医学の歴史は現在への教訓を与えると考えたSprengelは、医学史に実用的な目的を見いだしたのである。同じ時代には、医学史はこのような教育的な目的だけでなく、新たなタイプをつくりだすものとして捉えられることもあった。すなわち、ベルリンの医学者Justus Hecker(1795–1850)による歴史病理学(Historical Pathology)である。Heckerにとって、医学史は感染症の広がりといった今日的な医学の問題を研究するために役立つと考えていた。すなわち、中世から今日に至るまで病気の広がりのパターンを歴史的にみることで、将来の病気の予防や対応の参考にしようと言うのである。しかしながら、この新しい医学知識は、その思弁的な議論の仕方が批判されるようになり、18世紀中葉には歴史病理学の研究伝統は消えていく。その背景には、医学知識が生み出される場所が図書館から実験室へと移動したことがあげられる。こうして、大学で医学史を教える意義が疑問視されるようになり、医学から医学史を切り離そうという傾向が強まっていった。医学の科学化が進行するにつれ、一部の医者は医学史を反科学化・反物質主義のために利用しようとしたがそれもうまくいかなかった。なお、医学史におけるこういった複数の「伝統」は、本書の第一部に所収された論文で詳説されている。
 時代が下り、医学史に対する関心が医者の間で薄らぎつつあったが、研究と教育という二つの観点から医学史の自律性を主張する者が再びあらわれる。1905年にライプツィヒに新設された医学史研究所のポストについたKarl Sudhoff(1853–1938)は、医学史の学問的な基礎付けをおこなおうとし、自ら医学史のランケになろうと試みた。そのため、現在の問題と関連づけようとする医学史のプラグマティックな姿勢を、歴史主義的な立場から痛烈に批判したのである。アメリカでもジョンズホプキンス大学のFielding H. Garrison(1870–1935)がSudhoffのモデルをアメリカの医学史に適用しようとした。しかし、Sudhoffへの傾倒はアメリカの医学史家のなかでは必ずしも一般的ではなかった。たとえば、Henry Sigerist(1891–1957)は若い頃にSudhoffの文献学プロジェクトに参加したことがあったが、その頃から彼は歴史主義的な見方よりも社会学的な見方を好んでいた。Sudhoffが歴史資料の構築を目指していたのに対し、Sigeristはその資料群から哲学的・倫理的な問題の回答を引き出そうとしていたのである。彼が1931年に著した医学史概論は彼の教育への強い関心が詰まったものであり、アメリカでは医学史の教育的意義はその後半世紀にわたって継承されていくのであった。なお、1970年代から80年代に新しい社会史研究があらわれたことで、実用的な医学史を描こうとする姿勢は批判に遭うことになるが、その経緯は本書第二部に詳しい。さらにその後の文化論的転回を受けての医学史のとるべき方針が本書第三部で議論されている。

過去と現在の関連性に注目する医学史に向けて:Jackson, The Oxford Handbook of the History of Medicine(2011)

 とある医学史のゼミのアサインメントとして、医学史の概説書の序論を読みました。

Mark Jackson, “Introduction,” Mark Jackson, ed., The Oxford Handbook of the History of Medicine, Oxford: Oxford University Press, 2011, pp. 1–17.

The Oxford Handbook of the History of Medicine (Oxford Handbooks)

The Oxford Handbook of the History of Medicine (Oxford Handbooks)

 本書の編者であるエクセター大学の医学史家マーク・ジャクソンは、その序論のなかで医学史のアイデンティティについて考察している。本書のような医学史概論の書はこれまで多く生み出されてきた。たとえば、バイナムとポーターの1992年の概説書は、社会史・文化史の知見をふまえて医学史を描き出すことを試みた。また、ユイスマンとワーナーの2004年の著作は、単に医学知識・実践の内実を歴史的に描くのではなく、これまで医学史がいかに書かれてきたかに注目を促してた。各国の医学史の伝統や方法をみることで、彼らは医学史は一枚岩のものではないし、これまでそうであったこともなかったと指摘するのである。本書はこういった論点を引き継ぎながらも、過去の医学史の方法論を概観し、あるべき医学史の姿を描き出そうとするのではなく、医学史のアイデンティティは現在と過去の関連性を論じることができる点にあると指摘する。
 まず著者は、これまでの医学史研究が何を目指して探求されてきたかについて、二つの立場に注目して検討をおこなう。すなわち、科学者のトマス・マキオンと歴史家のジョン・F・ハッチンソンがそれぞれ出した見方である。マキオンは1970年にロンドンのウェルカム研究所で開催された医療社会史学会の年会で、医学史がやせ細りつつあると指摘した。医学史が現在の医学の状況と接点をもとうとしないために、難解な学問分野になってしまっていると考えるのである。そのためマキオンは、医療の社会史研究者は、現在の医学と社会の状況をより適切に描けるような歴史を叙述する必要があると主張する。それに対しロシア医療史を専門とするハッチンソンは、1973年にマキオンを痛烈に批判する論文を発表した。ハッチンソンは医学史が非生産的になりつつあることを認めながら、その主たる原因は研究者の古物収集癖にあると考え、現代の問題を解決するために医学史研究をおこなうというマキオンの動機を、非歴史的だとして喝破するのであった。
 この論争で問題となっているのは医学史の目的とは何であるかという点であり、医学史を現代社会の医療に関する問題と関連づけてよいかどうかということである。ここで医療社会史学会の歴史をみてみると、その学会はもともと現代の医療・保健制度を改善する手がかりとして医療の社会史に注目するものであった。その後、1976年に医療社会史学会・会長に就任した医学史家のチャールズ・ウェブスターは、医学史の専門性を守るために現在の医療政策に関連させた医学史の叙述を放棄するように訴えた。この見方は一見ハッチンソンのマキオンに対する批判と重なっているように思えるかもしれない。しかしウェブスターは過去と現在の関わりを否定したのでなく、むしろ注意深い歴史的考察が現代の問題との関連性を見いだすことができると考えていたのである。
 そこで著者が本書のキーワードとするのが、この「関連性」という言葉である。医学史研究の対象は、当時の社会的状況に影響されているのであり、当時の医療はそれらと関連づけて分析されるべきである。その点について言えば、医療の社会史研究者はこれまで多く議論してきたし、知識社会学者も医学知識の社会的拘束性について分析してきた。一方で、医学史の対象は現在にそのインパクトを残しているものもあるため、医学史を医療政策学に役立たせることができる。たとえば、2002年に設立された「歴史と政策ネットワーク」は、医学の歴史研究からある時期の医療と社会の関係性のパターンを踏まえることで、医療政策を今日考えていく際にそれらを参照させようという主張をおこなっている。その逆に、医学史家は現在の医療政策学での論争をふまえたり、人口動態や疫学などの計量的な手法を自らの研究にも適用することに積極的でなさすぎるという声もあがっている。たとえば、今日の医療システムを評価するのに使われる健康影響評価(HIA: Health Impact Assessment)を、医学史にも取り入れてはどうかとロバート・ウッズは提案している。以上をまとめると、歴史学の作法に則った医学史研究と、医療政策学的な問題と関連させる医学史研究は両立するはずであり、その両立を目指す論文によって本書は構成されている。