工作機械による互換性部品の開発というアメリカ式製造方式:橋本毅彦『「ものづくり」の科学史』(2013)#2

橋本毅彦『「ものづくり」の科学史――世界を変えた《標準革命》』講談社学術文庫、2013年、54−109頁。

 「第二章 工場長殺人事件を越えて──「アメリカ式製造方式」の誕生」では、駐フランス公使時代にフランスの標準化技術をみて驚いたジェファーソンがそれをアメリカに持ち込み、アメリカ独自の製造システムが誕生する経緯が示される。第一章でみたフランスでは、標準化に関する発想は生まれていたが、そういった技術が現場で労働者たちによってうまく進められたわけではなかった。なぜなら、労働者たちが標準化技術を実践するには手作業だけでは難しく、機械の助けを借りる必要があったからである。それを実行しえたのがアメリカであり、その中心地となったのがマサチューセッツ州スプリングフィールド工場(1794年設立)と現在のウェストヴァージニア州のハーパースフェリー工場(1798年)という二つの工廠であった。
 当初、それぞれの工廠で互換性をもつ銃の部品の製造が進められたが、その結果は明暗を分けた。スプリングフィールドでは技術者トマス・ブランチャードが開発した機械によって、これまで手作業では1時間かかっていた銃床の切削加工作業がわずか1分でできるようになり、作業の効率化に成功したのである。一方のハーパースフェリーでは、前近代的な労働形態が維持されたままであり、工場の機械化・近代化が遅々として進まなかった。そんななか、新たにハーパースフェリーの所長に就任した人物が、工廠の規律化を押し進めようとした結果、労働者から反発に遭い、殺害されるという事件にまで発展してしまう。そのため、これを機にハーパースフェリーの新たな所長として規律を重んじる軍人が招聘され、専用工作機械の導入、機械による互換性部品の製造が進めらたのであった。
 その後、両工廠では互換性部品の製造技術が発展し、その技術は周辺の民間工場にも伝播していき、全米中に広がっていく。「専用工作機械」による「互換性」のある部品をつくるという「アメリカ式製造方式」はここに完成をみる。イギリスの技術史家ロルトはこのような事態に「歴史の皮肉」を読み取っている。というのも、独立戦争を契機にアメリカへの機械輸出を禁止したイギリスであったが、アメリカは今度はフランスから技術を学びながら独自の製造技術をつくりあげ、その後、クリミア戦争開戦を目前にしたイギリスはその製造方式が是が非でも導入すべきものになっていたからである。
 「第三章 工廠から巣立った技術者たち──大量生産への道」では、アメリカの二つの工廠で生まれた標準化技術が、工作機械技術の発展に即して、いろいろな製造技術に応用されていく過程が示される。しかしそれを示す前に、そもそもなぜ産業革命発祥の地イギリスが、後進国アメリカの開発したコルト式拳銃およびその製造方式に驚嘆することになったのか、そしてイギリスではなぜそれらが生まれなかったのかが問われる。一つに、イギリスの優秀な銃製作者たちは、発注が変動しやすい軍からの兵器製造を請け負うことを避け、貴族から求められる狩猟用のオーダーメイド銃を精密につくりあげることを好んでいたことがあげられるだろう。また別の理由としては、ヨーロッパ諸国ではラタイド運動にみられるような、労働者の機械への反発が根強く、一方のアメリカでは労働力が不足していたため、機械を活用せざるを得なかったという状況があげられる。後者の見方は、ロンドン万国博覧会の2年後におこなわれたニューヨーク万国博覧会を視察したイギリス人ウィットワースも述べているものであり、のちの経済史家の間でも採用される古典的な見方である。ただしここで注意しなくてはならないのが、アメリカ流の銃製造方法がそのままイギリスで広がっていったわけではないということである。もちろん、クリミア戦争時にはイギリスはアメリカ式製造法に大いに注目したが、1858年に戦争が終結すると、互換性技術に基づく銃の大量生産計画は中止となり、市場ではこれまでのような伝統的な銃の需要が再び高まったのである。
 今一度話はアメリカに戻り、スプリングフィールド工廠によって生み出された互換性技術が、1830年代から南北戦争開戦までに、その周辺に広がっていくことが示される。「工廠方式」と呼ばれるこの技術は、銃を製造する工場だけでなく、その他の機械・道具を製造する工場、さらには民間企業にまで採用されて行くことになる。たとえば、ウィルコック&ギッブス社は工廠方式に熟達した他企業の技術者を招聘することで、ミシンをつくるための工作機械の製造を押し進めた。さらなる例として、自転車を工作機械を用いてつくる方法を開発したポープ社があげられる。それらからやや遅れて1903年に設立されたフォード社は、自転車産業でうまれていたプレス加工技術を活用し、自動車製造の機械化、互換性のある部品の開発を進めた。さらにフォード社は、流れ作業による製造方式を採用することで、自動車を効率よく、大量生産する方法を開発したのであった。こうして1910年にフォード社はT型車の大量生産を開始することになる。

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アメリカン・システムから大量生産へ 1800‐1932

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工作機械の歴史―職人の技からオートメーションへ

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七年戦争とフランスにおける互換性のある兵器開発:橋本毅彦『「ものづくり」の科学史』(2013)#1

 とある科学史の授業のアサインメントとして読みました。なお、本書は『<標準>の哲学――スタンダード・テクノロジーの三〇〇年』(講談社メチエ、2002年)の改訂版です。

橋本毅彦『「ものづくり」の科学史――世界を変えた《標準革命》』講談社学術文庫、2013年、1−53頁。

 1851年にイギリスで開催された万国博覧会で、アメリカのサミュエル・コルト(1814−1862)が製作した回転式自動拳銃はその見物客を驚かせた。というのも、それが工業機械を用いて、同一の部品から簡単にかつ大量に銃をつくる方法を提示したからである。今では部品の標準化・互換性というのは当たり前のようになっているが、18世紀にはまだ機械製品はそれぞれの個性をもっていたのであり、職人が一つ一つ時間をかけてつくるものであった。それが19世紀になるとフランスの銃製造を通じて部品の標準化が進められ、20世紀には「互換性」をもつ部品が大量生産されていくことになる。本書は、このような標準化の歴史を、多くの機械製品の事例を提示しながら描いたものである。
 「第一章 ジェファーソンを驚かせた技術──標準化技術の起源」では、コルト式拳銃にみられる部品の標準化技術の背景となったフランスの銃製造技術の歴史が示される。フランスが銃を構成する部品の互換性に注目するようになったのは、プロイセンとの間で勃発した七年戦争(1756−1763年)がきっかけであった。というのも、兵力が半分であるにもかかわらず、迅速に軍隊を移動させるプロイセンを前に、フランス軍は敗北を喫してしまったのである。これにより、戦争においては軍隊・武器の機動性が重視されるようになり、大きな大砲よりも軽量で可動性の高い大砲をつくることが待望されるようになった。
 そういった新たな兵器体系をつくったのが軍事技術者のグリボーヴァル(1715−1789)である。彼はまず軍事製品そのものの標準化に取り組み、その後、それらを構成する部品の標準化をおこなった。しかしそれ以上に重要なのは、彼が互換性のある部品製造にも着手した点である。そもそも戦場では大砲というのはそれを運ぶ砲車とセットであるが、軽量の大砲であると発射の反動で砲車がより後ろに移動してしまい、機動性という軽量の大砲のメリットが損なわれてしまう。その解決策としては、たとえば砲車をより頑丈にすることなどが考えられるが、グリボーヴァルはむしろ、砲車を修理しやすくしようという発想をとったのである。すなわち、砲車の各部品に互換性をもたせることで、修理のしやすさを追求したのであった。
 その後フランス革命が起き、フランスではパリ市民を総動員した互換性をもつ銃の製造がおこなわれることになる。歴史家ケン・アルダーが「18世紀のマンハッタン・プロジェクト」と呼ぶこのプロジェクトは、しかしながら、合理的な設計生産を提示するエリート技術者のねらいとは裏腹に、その新技術の導入を放棄する市民労働者を前に、失敗に終わるのであった。

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イガル・ガリリ「物理的知識の表象における科学史科学哲学の関わりと、その枠組としての文化的知識内容」科哲特別講演(2014年4月9日、於:東京大学駒場キャンパス)

Igal Galili, "Cultural Content Knowledge as a Framework of Involvement of History and Philosophy of Science in Representation of Physics Knowledge," Special Lecture at Katetsu, The University of Tokyo, 9 April 2014.
(イガル・ガリリ「物理的知識の表象における科学史科学哲学の関わりと、その枠組としての文化的知識内容」科哲特別講演、2014年4月9日、於:東京大学駒場キャンパス

 講演者のイガル・ガリリ教授(ヘブライ大学科学教育センター)は、元々は理論物理学者で、最近では科学史・科学哲学のマテリアルをつかった科学教育の重要性を訴え、それに即した彼オリジナルの教育方法を提唱している人物です。ハソク・チャン氏らとともに、アジアにおける科学教育のあり方について積極的な発言をおこなっています。
 これまでの高校や大学での科学教育では、科学の法則や理論あるいは問題を解くことばかりが教えられてきました。それに対しガリリ氏は、科学の本質をもっと教えるべきであると言います。それは、科学知識をnucleus/body/peripheryという三つのタイプに分類し、それぞれの特徴を学ぶことに他なりません。nucleusは科学の法則やパラダイムを指し、bodyはそれの応用的な事項を指します。これら二つは、イムレ・ラカトシュがハードコア(hard core)と防御帯(protecting belt)と呼んだ概念と比較的近いものです。それに対し、ガリリ氏がとくに注目を促すのが、科学知識のperipheryについてです。このタイプの知識は、ある事象に対する一つの定まった知見ではなく、さまざまな解釈のされ方に注目したものです。それはたとえば、ある本に書いてあるテキストの内容は一定であっても、それがさまざまな声に出して読まれるような多様性をもっているのです。
 このような知識の特徴付けをおこなったあと、ガリリ氏はとくにこのperipheryを学生に教えることに意義があると主張し、そのときにこれまで科学史・科学哲学が明らかにしてきた事物が大いに役立つと指摘しています。科学教育の場面において科学史の事例を利用することは、今ではやや古くさいタイプの指導方法になっています。しかし実際に科学教育をおこなうときは、科学史・科学哲学における基本的ないくつかのイベントに注目することは、科学の本質を学ぶのに大いに役立つのです。ここで注目されるイベントは、「小旅行(excurse)」という彼オリジナルのアイディアによって概念化されます。この概念では、ある人物が提唱した理論や法則の内容を単に紹介するのではなく、その人物がこれまで同様の問題を取り扱った人物や理論に対し、どのような評価・解釈を与えているかにとくに注目を促すのです。それはたとえば、運動について、古代には動因を外部に求めていたのが、中世にインペトゥスのような内なる動因を想定するようになり、初期近代に動因そのものが否定され、現代に古典的な運動概念が否定されていくような変遷を、理論間のつながり・対話に注目することなのです。こういった教育法を総称して、ガリリ氏は"cultural content knowledge"アプローチと呼び、その普及を訴えるのでした。

バシュラールとパストゥールにおける臨床医学の科学性:カンギレム「十九世紀における「医学理論」終焉への細菌学の効果」(2006)

ジョルジュ・カンギレム「十九世紀における「医学理論」終焉への細菌学の効果」『生命科学の歴史――イデオロギーと合理性』杉山吉弘訳、法政大学出版局、2006年、61–89頁。

生命科学の歴史―イデオロギーと合理性 (叢書・ウニベルシタス)

生命科学の歴史―イデオロギーと合理性 (叢書・ウニベルシタス)

 かつてフーコーは『知の考古学』において、知の歴史上のいくつかの閾を取り上げてみせた。それはたとえば、実定性、認識論、科学性、形式性などのレベルにおける知の転換についてである。それに対しカンギレムは、フーコーが明示的に区別することはなかった2人の医学者に注目する。すなわち、実験医学のバシュラールと細菌学のパストゥールである。カンギレムは両者の間に、臨床的な科学性への貢献の有無において大きな断絶があることを指摘しようとするのである。彼らの前に、医学史上最も効果ある臨床的成果を獲得していたのは、ジェンナー(1748–1817)の牛痘法であった。しかし、ジェンナーの発想はその後のバシュラールといった医学者には理解されなかった。カンギレムは本章で、それから一世紀を経た後、パストゥールらが医学者ではなく化学者の協力を得て、ジェンナーの考えを実効的なものへと作り上げていく過程を描き出している。
 18世紀終わりから19世紀初頭にかけて、フーコーが「臨床医学の誕生」と呼んだ医学史上の大転換が起きる。古代から18世紀中頃に至るまで、医学をめぐる理論・体系は何度も移り変わっていき、一つの理論に医学が収斂することはなかったし、医療実践のレベルでも劇的な成果を生み出すものはあらわれず、18世紀には治療をあきらめ、ヒポクラテス的な無害の原則に回帰する現象さえ起こった。しかし18世紀末から19世紀初めに、治療的懐疑主義の合理的なアプローチがあらわれたり、生理学が古典解剖から解放され、ひとつの自立した学問となるなどの大きな変化が起きたのである。
 その新しい医学理論が生まれる背景には、当時、ヨーロッパの医学者たちを支配した医学体系であり、史上最後の医学体系を提示したスコットランド人医師のジョン・ブラウン(1735−1788)の存在が大きかった。ブラウンは『医学原論 Elementa Medicinae』(1780年)のなかで、「生命とは一つの強いられた〔不自然な〕状態である」、「〔医師は〕決して無活動であってはならず、自然の力を信頼するな。自然は外部の事物がなければ何もなしえない」といった言葉を残し、新たな病因観および医師の治療的役割について論じた。フランスでは、ブルセ(1772–1838)、マジャンディ(1772–1838)、ベルナール(1813–1878)らの生理学的医学あるいは実験医学がその考えを受け継いだ。たとえばマジャンディは、医学の場所を病院から実験室に、実験対象を人間から動物に、有機体に変化をもたらす要因をガレノス(生薬)調製から薬化学に変えた。またベルナールは、実験医学の理論にはもはや科学的革命は存在しないと断言し、その科学が漸進的にかつ動揺なしに増大、進歩すると主張した。しかしながら結局、ベルナールらの実験医学のプロジェクトはイデオロギーレベルに留まっており、臨床上の成果につながることはなかった。事実、マジャンディは治療については懐疑主義的な立場を保持し、これまでの医師となんら変わりない治療観を示していたのである。
 18世紀末から19世紀はじめにかけて、ベルナールらの実験医学のようにかつてないほど洗練された医学理論が提示されたにもかかわらず、その一世紀前に提示されたジェンナーの牛痘法ほどのインパクトのある臨床医学はこの時代には生み出されず、それに対する正当な評価も与えられなかった。結局、ジェンナーの発想を受け継いだ臨床医学があらわれるのは、医学とは別の分野、すなわち化学分野における新たな療法の誕生を通じてであった。すなわち、1870年代からのドイツ化学工業の進展によって、医学史上初めていかなる医学理論からも自由で、実効的な治療法である化学療法が生み出されたのである。その代表者はドイツのエールリヒ(1854–1915)であるが、彼はベーリング(1854−1917)による血清療法に着想を得て、化学合成物を使った療法を開発した。病人の血清を人に投与することで病気を予防するという新たな免疫学的知見に基づき、ある微生物の毒素に特異的な親和性をもつ化学合成物をつくったのである。さらにこの時代には、アニリン染料にみられるように、特定の化学構造に色をもたせ、新たな視覚表象が可能となっていた。こうした科学・産業界での発展が、ジェンナーの牛痘法に接続しうる化学療法をもたらしたのである。
 エールリヒの化学療法にはバシュラールらが追い求めたような実験医学の特徴を見出すことができるかもしれない。しかし化学療法の発想は、バシュラールらの実験医学というよりむしろ、パストゥールやコッホの細菌学の考えに近い。というのも、パストゥールはこれまでの医学的知見に基づいてではなく、同時代の化学的知見に多くを負うことで医学思想上の革命をおこなったからである。パストゥールは、光学異性体に関する実験から、微生物の特性と分子の構造的非対称性を関係づける。かつてマジャンディが、場所・実験対象・有機体に変化をもたらす要因という三つのレベルで新たな試みをおこなっていたが、パストゥールはそれに第四の契機を加えたのである。すなわち、生体の病理学的問題を生体上に見いだすのではなく、化学的に純粋な幾何学的形態である結晶上に求めたのである。ここにおいて、細菌、発酵、病気が同じ統一理論のなかで結びつけられ、マジャンディやベルナールらが創出していた医学の諸モデルは「イデオロギーの最高天」に追い払われることになったのである。

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知の考古学 (河出文庫)

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臨床医学の誕生 (始まりの本)

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目次:『日本医史学雑誌』60(1)、2014年3月

 『日本医史学雑誌』の最新号(60(1)、通巻1553号)が届きましたので、今回も本号の目次を掲載しておきたいと思います。

<原著>

・土屋悠子「『御製本草品彙精要』編纂の序幕――『孝宗実録』弘治16年8月9日の条をめぐって」
・安西なつめ・澤井直・坂井建雄「ニコラウス・ステノによる筋の幾何学的記述――17世紀における筋運動の探究」
・梶谷光弘「華岡青洲門人石堂鼎と妹背家――華岡家を支え続けた功労者」
・藤原聡子・月澤美代子「精神予防性無痛分娩法の導入と施設分娩における妊婦管理への影響――1953年〜1964年の日本赤十字本部産院および大森赤十字病院における実践」

<ひろば>

・菅野幸子「近代ギリシャの啓蒙期における解剖学・生理学の受容」

<資料>

・梶谷光弘「華岡青洲(3代随賢)末裔(本家)所蔵の国別門人録」について(3)」
・池田文書研究会「池田文書の研究(48)」

<記事>

・消息:井手研「山手病院(Bluff Hospital)の銘板に刻まれた人名を巡って――元英国領事Malcolm Edwards氏の手記より」
・例会抄録

<書籍紹介>

緒方洪庵記念財団除痘館記念資料室(編)『大阪の除痘館』<改訂・増補 第2版> (評者:渡辺幹夫)

大阪の除痘館 (1983年)

大阪の除痘館 (1983年)

※リンクは初版本

・池本卯典・吉川泰弘・伊藤伸彦(監修)『獣医学概論――獣医学教育モデル・コア・カリキュラム準拠』(評者:逢見憲一)

獣医学概論―獣医学教育モデル・コア・カリキュラム準拠

獣医学概論―獣医学教育モデル・コア・カリキュラム準拠

若木太一(編)『長崎 東西文化交渉史の舞台――ポルトガル時代 オランダ時代』(評者:渡辺幹夫)

所蔵品展「饅頭・柏・オリーブ 山口進の画業と交友」東京大学駒場博物館

所蔵品展「饅頭・柏・オリーブ 山口進の画業と交友」会期:2014年3月3日〜4月11日、於:東京大学駒場博物館
HP:http://museum.c.u-tokyo.ac.jp/exihibition.html#yamaguchi

 東京大学教養学部の正門には、柏の葉とオリーブをかたどった旧制第一高等学校の校章が印されています。そのデザインをおこなったのが、長野県上伊那郡東箕輪村出身の画家・山口進(1897–1983)でした。駒場博物館における今回の所蔵品点は、山口進に焦点をあわせ、彼の駒場での活動を記録した資料や、彼の作品などが展示されています。
 展示は三部構成になっており、「I 山口進と一高」では、山口が大正14年より一高の寮務掛として任命されたことを示す記録や一高の教授陣らとの書簡が展示されています。「II 山口進の画業」では、彼の描いた水彩画や版画、書画、あるいは長野帰郷後の文筆活動を示す『しなの』、『まつしま』といった雑誌が展示されています。
 個人的に特におもしろかったのは、二階の「III 正門の完成と越境事件」というコーナーです。一高では伝統的に、学生はいかなるときも正門を通って出入りするべきだという「正門主義」が奉じられていました。そのため、門限を過ぎて正門が閉まっていても、その正門を乗り越えて寮に戻ることが習わしとなっていました。しかし、一高が本郷から駒場に移転し、山口進デザインの正門が昭和13年1月に完成したことをきっかけに、その正門主義に違反する越境事件が起きたのです。というのも、新たな正門があまりに立派であったために、それを登った寮生たちがしばしば転げ落ちてケガをしていました。それゆえ、寮生たちは次第に正門主義を破るようになり、近くの低い垣根を跳び越えて、寮に戻るようになっていったのでした。そして、昭和13年4月、ある日の夜遅くに、風紀点検委員会が正門主義に違反している寮生7名をみつけ、彼らをとらえます。規則に違反した学生の処分をめぐって、学生を退学処分にすべきだという強硬な意見も出ましたが、結局は謹慎とすることで事件は落着しました。博物館では、事件当日の宿直日記や事件の様子を振り返った第一高等学校寄宿寮(編)『向陵誌 駒場編』などが展示されています。
 なお、今回の所蔵品展で展示されていた書簡や日誌の記録は、会場で配布されているパンフレットに翻刻されて記載されており、非常にありがたいです。また、それと同様の「解説シート」が駒場博物館HPにアップされていますので、関心がある人は是非ごらんください。

植民地時代から第二次大戦後までのアメリカにおける医学教育:Kaufman "American Medical Education”(1980)

Martin Kaufman, "American Medical Education,” Ronald L. Numbers, ed., The Education of American Physicians: Historical Essays, Berkeley and Los Angeles: University of California Press, 1980, pp. 7–28.

The Education of American Physicians: Historical Essays

The Education of American Physicians: Historical Essays

 本論文は、植民地時代から第二次大戦後に至るまでのアメリカにおける医学教育の歴史を概観するものである。19世紀になってもアメリカの医師の大半は徒弟制度によって医師としての訓練を受けていた。そういった制度は植民地時代にみてとれ、16歳以下の少年は師のもとで従者として5〜7年ほどの訓練を受けていたという。彼らは馬の世話をしたり、部屋を片付けたり、請求書を集めたりしながら、師の診療の様子をみることで医学について学んだのである。そういった少年たちのなかで、上流階級のごく限られた者だけがエディンバラ大学などのヨーロッパの医学校に学びにいくことができた。そして、そういった人物が各地の医学校の教授職に就くことになる。なお、植民地時代の医師は全部で3000人ほどであったが、そのうちヨーロッパで学ぶことが出来たのは300人ほどであった。
 アメリカで最初の医学校が設立されたのは、1765年のフィラデルフィアにおいてであった。エディンバラ大学で医学を学んだ者たちは、植民地にも医学校をつくる必要を感じ、その大学医学部を範にした医学校をつくったのである。1768年には10人の生徒がその学校から医学学士を受けた。19世紀初めまでにはハーバードをはじめとして合計5つの医学校が設立され、その後も各地に次々と医学校が設立されるようになっていった。具体的には、1810年から1840年の間には26校が、1840年から1877年までには47校が新たに設立され、1876年までには全国で80の医学校が存在していた。そういった医学校を設立しようとした理由としては、なんといってもその経済的な利潤があげられる。この頃の医学校はその運営費を多額の授業料を払ってくれる学生に完全に依存していたために、他校と競うようにして学生の獲得に熱心になっていた。そのため、学校間での競争も激しくなり、学位獲得に必要な授業期間を短くするなどして学生の関心を引こうとした。なお、アメリカの医学校で基礎として教えられたのは、解剖学、植物学、化学、婦人病・小児病、博物学、産科学、生理学、医療の原理・実践、外科の原理・実践の9科目であったという。
 金ぴか時代(1865–1893年)になっても私立の医学校は増加し続けた。1880年には90校であったのが、1890年には116校になり、1900年には151校にまで増えている。しかしながら医科学の発展により、医学に係る費用がかさむようになると、各校はこれまでのように学生の授業料のみに頼って学校を運営するのが難しくなりはじめる。同時に、医学の内容自体も高度になっていき、これまでのような伝統的なカリキュラムでは対応できないようになっていった。そういったなかで、理想的な医学校のあり方を提示したのが、ボルティモアのジョンズ・ホプキンス医学校であった。この学校は、大学からの補助金を引き出し、生徒の学費への依存からの脱却に成功した。同時に、ドイツの医学教育に範をとり、4年制であり、ラボでの実験や臨床教育に重きをおくカリキュラムへと刷新した。それに伴い、世紀転換期にはアメリカ医学校における医学教育を改善しようという動きがあらわれはじめる。たとえば、1890年にはアメリカ医師会(American Medical Association; AMA)が医学教育の改善について議論する年会を開いたし、その年会はアメリカ医学校協会(Association of American Medical Colleges; AAMC)という新組織へとつながり、1903年にはAMAがのちに医学教育評議会(Council on Medical Education)となる委員会が立ち上げられている。
 こうした流れのなかで、20世紀初頭にアメリカ医学教育の大改革を提案する、歴史的な報告書が提出される。その報告者は、教育者として知られていたフレクスナー(Abraham Flexner, 1866–1959)であった。彼はまず、全国の医学校が定員割れを防ぐために、入学基準に違反した入学を許していることが問題視し、さらに医学校の実験室や臨床施設が不十分であることを指摘した。フレクスナー報告を受けて、AAMCやAMAの医学教育評議会は、全国医学校の調査に乗り出し、基準を満たさない私立の医学校などは次々と閉鎖させられていった。こうして、1910年には155校あったのが、1920年には85校となり、1941–1942年には77校にまでその数は激減していった。
 しかしながら、フレクスナー報告によって問題がすべて解決したわけではなかった。医学の専門分化が進んでいたために、これまでの医学教育のカリキュラムを保持していくことが難しくなるという、新たな問題が生まれていたのである。すなわち、どの医学生もすべての専門分野を学ぶ必要があったために、既存のカリキュラムに加えて新たに生まれた専門分野を短い時間で教えられるようになり、学ぶべきことが飛躍的に増加していった。その結果、医学に関連する人文学や社会科学などがカリキュラムから削除されるようになり、医学教育が科学化が進んでいったのである。そのような事態を打開するために、各人のキャリアプランに即したカリキュラムへと作り直すべきだと提案されるようになる。なかでも、ウェスタリザーブ大学の取り組みは先駆的であり、1950年に同大学は学生の必修科目を減らし、それぞれの関心に応じた選択科目を多くとれるようなカリキュラムをはじめた。そして1950年代から1960年代はじめ頃には、ウェスタリザーブ方式が各医学校でも実施されるようになっていくのであった。