日本医史学会・月例会(2011年11月26日、於:順天堂大学)

 土曜日に行われた日本医史学会・月例会(2011年11月26日、於:順天堂大学)にはじめて参加してきました。簡単に発表メモをまとめておきたいと思います。

・松村紀明「江戸期在村医の医療活動――岡山県邑久郡中島家文書の鍼灸記録から」

 帝京平成大学の松村氏の発表は、科研プロジェクト(http://kaken.nii.ac.jp/d/p/23501206)での研究をもとに、中島友玄による鍼灸記録に着目し報告が行われました。
 中島家は岡山県南部にある邑久(おく)郡の医家で、近世後期には周辺地域の医療普及に貢献したそうです。今回、紹介された史料は、第四代の中島友玄(ゆうげん)(1808-1846/文化5-明治9)の『鍼灸諸事代紳録』(文久3(1863)年)、『鍼灸施治人名録』(文久2(1862)年)、『鍼灸施治姓名録』(邑久郡西南・東など)(文久3(1863)年)ほか合計7点が紹介されました。
 村松氏は『鍼灸施治姓名録』(邑久郡西南)という史料の分析を通じ、友玄にとって鍼灸はプリミティブなものであったのではないかと仮説を提示していました。これは、日常的にみられる病気に対して、友玄が鍼灸によって治療していることから判断されたものでした。
 もちろん、この点については、もう少し議論が必要となるでしょう。例えば、そもそも友玄の鍼灸による治療内容は、当時の鍼灸における一般的な治療内容と異なっていたのか、また、同じ地域に他にどういった(専科の)医師がいたか、といった疑問があげられます。いずれにせよ、専科であるはずの鍼灸が、友玄においては、その域におさまらず、幅広い治療内容となっていたという指摘は興味深いです。そして、このことは当時の医学知識・実践が、どのような背景によって形成されていったかを知る手がかりともなるのではないでしょうか。なお、これらの史料は実際の治療についてだけでなく、謝礼の金額や受療者の属性など、当時の「医療環境」について知ることができるものでもあります。
 今後も、邑久郡のプロジェクトは続いていくそうなので、これらの研究が楽しみです。

橋本明精神科医・小林靖彦(1919-2007)が遺した精神医療史資料の意義を考える」

 愛知県立大学の橋本氏の発表は、『日本精神医学小史』(中外医学社、1963年)などで知られる精神医学史家・小林靖彦に関するものでした。精神医学史において重要な人物の一人であるにもかかわらず、これまで小林の履歴については、資料的な制約もあって、ほとんど論じられることはありませんでした。しかしながら、小林家に残っていた膨大な資料を、橋本氏が偶然見つけたことをきっかけに、資料の引き取り・整理が行われ、小林についての研究の可能性が一気に広がりました。そして、それらの資料群をもとに、今までほとんどなされてこなかった小林の精神医学史における位置づけについて、今回の発表で行われることになったそうです。
 なお、発表の大枠は、愛知県立大学で先日行われた精神医学史学会(http://jshp.blog20.fc2.com/blog-entry-68.html)の特別展示「小林靖彦回顧展」に基づいたものだそうで、配付資料も、「近代日本精神医療史研究会」のウェブサイト(http://kenkyukaiblog.jugem.jp/?cid=10)から閲覧可能です。
 上のページを読んでいただいてもわかると思いますが、もう少しで廃棄されるところだった資料を橋本氏が偶然発見するという、いささかドラマチックなお話しでありましたが、こういったことからも報告の主眼は医学史研究における資料保存の重要性に置かれることとなりました。(実際、先の精神医学史学会では、「近代精神医療史資料の保存と利用」というシンポジウムが開催されたようです。)しかしながら、結果として、それほどフロアから実りある議論は行われず、橋本氏もまだまだ模索中という感じでした。(先のシンポジウムで、議論されたことの紹介があってもいいと思ったのですが…。)

 一方、もう一つの主題は、精神医学史の歴史の中における小林の位置づけについてでした。橋本氏は、小林の歴史叙述を、安易な近代化論に陥らなかったという点において評価しています。なお、ここでいう近代化論とは、西洋医学が日本、とりわけ東京(帝国)大学に移入され、それが時間の経過とともに地方(大学)へと広がっていく過程を示そうとする歴史叙述のことです。すなわち、小林の残した資料は何百もの資料アルバムは、地域(都道府県)別に整理されており、近代的でないことを取り扱った資料であっても、小林はそれらを近代的なものを取り扱った資料と並置してみせています。同時に、小林は東京(帝国)大学を頂点とする精神医学のヒエラルヒーを有しておらず、彼の前では東京であっても、彼の勤務地であった愛知であっても、その資料群は同じレベルに列せられています。このように、1970年代にこのような特徴的な視点をもった研究がなされているのは、非常に興味深いものでありました。

 しかし、残念なことに、フロアの注目は第一の論点に集中したため、小林の歴史叙述に関する議論はほとんど議論されずに終わってしまいました。個人的には、小林は著書の中で、呉秀三に対しどのようなスタンスをとっていたのか、すなわち、小林が目指そうとした精神医学の記述が、呉のそれと相補的な関係となることを目指したのか、あるいは、対立的な関係であろうとしたのか、という点は気になるところでした。

 なお、橋本氏の発表後は、研究会の司会をつとめられていた、同じく精神医学史家の岡田靖雄氏からコメントがありました。岡田氏のコメントで興味深かったのは、日本の精神医学史研究を大きく4つに時代区分している点です。第一世代は言わずと知れた呉秀三です。そして、第二世代が医学文献をしっかりと追った金子凖二と、今回の小林靖彦があげられていました。第三世代が、ライシャワー事件をきっかけとして、主として精神医学関連法制を中心に追ってきた岡田靖雄・吉岡真二らです。そして、第四世代として、15年前に精神医学史学会が設立された時期から活躍をはじめた橋本氏のような研究者です。最後の世代の特徴として、いわゆる精神医学者ではなかった人の台頭があげられていましがた、この点について、岡田氏は「精神医学者の日常が忘れられてしまうのではないか」といった疑義を抱いておりました。
 この時代区分は非常に簡潔であり、ある程度、的を射ているものと思われますが、確固たる精神医学というものを中心に据えて、それとの距離感で区別している点が、少々疑問に思えました。ともあれ、日本における精神医学史の歴史なるものを垣間見ることができ、非常に勉強となりました。