医療史アーカイブズ構築への提案:廣川和花「近代日本の疾病史資料の保存と公開にむけて」(2012)

 歴史研究者にとって史資料をいかに保存し、活用していくかという問題は避けては通れません。多くの研究者は自ら資料のアーカイビングに関わっていますが、医学史や科学史といった研究領域においてはそれらに比べるとあまり活発に進められていないようです。そのような状況に対し、本論考は医学史研究者のアーカイブズ参与を促すべく、医学史関連資料の保存・公開・活用の具体的な方法について紹介しています。医学史・科学史アーカイブズを主題にした文献はそれほど多くないことに鑑みると、本論考は非常に有益であり、また、アーカイブズに関心のある人にとっては必読文献と言えるでしょう。
 なお、本稿はシンポジウム「近代精神医療史資料の保存と活用」(第15回精神医学史学会、2011年10月29日、於愛知県立大学)での報告に基づいています。

廣川和花「近代日本の疾病史資料の保存と公開にむけて―― ハンセン病史資料を素材に」『精神医学史研究』16(1)、2012年、41–46頁。

 医学史(あるいは、医史学)では、かねてより医学史関連資料の収集・保存への関心は強かった。たとえば、日本医史学会の特集「日本における医史料の蒐集と保存について」(『日本医史学雑誌』44(2)、1998年)が開催されるなど、その収集・保存については多く議論されてきた。このようにして、全国の医学部図書館を中心に著名な医学者の医書や家文書などが精力的に収集されてきたのである。一方、そこで想定されている医史料の対象はいささか限定的であり、また、そういった医史料の活用に関する議論はほとんどおこなわれていない。しかし、昨今の医学史研究はそこで医史料としてあげられた以外にも多くの多様な資料を活用している。著者はそのようなタイプのを「疾病史資料」(詳細は下表を参照)と呼び、そのような資料の保存・収集だけでなく、研究者や患者のための公開・活用を進めていくべきだと主張している。
 まず、疾病史資料の保存・活用の一事例として、著者自身が取り組んでいる「大阪皮膚病研究所関係資料」のアーカイビング活動が紹介される。この資料は大阪皮膚研究所(1929–1993年)に残るハンセン病患者の外来診察記録が中心で、現在、大阪大学文書館準備室に移管されている。戦前にハンセン病患者の収容がすすめられた時期においても、この研究所は患者の外来診察をおこなっていた。そのため、これまでのハンセン病研究が患者の隔離・収容を中心に検討してきたことに対し、大阪皮膚病研究所資料は新たなハンセン病史を描く可能性をもたらしうるのである。もちろん、これら資料は歴史研究者にとってだけでなく、患者自身にとっても有益である。なぜなら、「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」(2008年公布・施行)で患者に対する給付金が定められたが、給付を受けられる患者の認定に際して、本資料群が証拠として利用可能であるからである。
 次に著者はこの資料の公開について検討する。大阪大学文書館準備室は2013年度中に「公文書等の管理に関する法律」の定める「公文書館」になる予定であるため、そこに所蔵される資料群は公文書管理法の諸規定と国立公文書館法に則った利用制限がかけられる必要がある。原則的には30年経過分の資料は閲覧が許可されるが、その資料が含む個人情報の特徴により、国立公文書館法はその資料が閲覧可能になるまでの期間を別途設定している。たとえば、伝染性疾患や身体障害は50〜80年、遺伝性疾患や精神障害は80年以上としている。「大阪皮膚病研究所関係資料」は病歴などの個人情報を含むため、こういった規定に照らしながらその公開基準が定められる必要があるが、こういった医学資料の閲覧基準に関して全国の統一的な基準はまだない状況である。そのため著者は試案として、研究者・研究者以外・カルテ記載本人に利用者を分け、それぞれに対する公開基準をあげている。たとえば、研究者に対しては、患者の個人名の閲覧および30年経過分の資料の閲覧を原則的に許可する。マスコミなど研究者以外には、個人名の開示は事例毎に判断し、50年経過分の閲覧を許可する。カルテ記載本人に関しては、公文書管理法の本人情報の開示にあたるので、文書の作成年月日にかかわらず開示する必要がある。
 公文書館に医学資料が収蔵されることで、その一定期間の保存が確約される一方、知る権利に応えるために、情報開示の基準を定める必要がある。そのような資料は、個人情報保護の名の下に全面的に公開・活用を拒否されるべきではなく、研究者や患者本人に資するためによりよい公開基準の構築が今まさに目指されているのである。同時に、こういった資料群のアーカイビングには医学史に関する専門性が要求されることが多いため、医学史研究者たちは資料の保存・公開・活用により積極的に取り組んでいくべきであるとしている。

参考:「疾病史資料」の例

(1) 古文書・古記録(近世以前)
 a. 蘭学・洋学塾、医学塾単位の資料群(医療器具や古典籍など)
 b. 医家の家文書(同上)
 c. 藩政史料(藩医や在村医などの情報)
 d. 地方文書(地域の医療・疾病に関する情報)
(2) 組織単位の資料(近代以降)
 a. 病院単位の資料群(標本、カルテ、組織運営の記録など)
 b. 大学医学部の資料群(上記に加え、研究ノート、講義録など)
 c. 企業資料(製薬会社などの自社アーカイブズ、蒐集品など)
 d. 公文書保有の国・自治体の公文書(医療・疾病に関する法令・記録、患者や当事者団体の記録)
(3) 個人記録
 a. 医師・コメディカルによる個人記録
 b. 患者による記録・闘病記
 c. 個人蒐集家・医学史家によるコレクション
(4) 統計資料(『帝国統計年鑑』、『衛生局年報』、『府県史料』など)
(5) 報道(新聞、雑誌など)
(6) 医学雑誌
(7) 口述記録(聞き取り調査)

備考:これまでの「医史料」は(1)のa・b、(2)のb、(3)のcなどが中心であった。
典拠:表1(42頁)より一部抜粋

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