江戸期における医療教育施設と臨床施設の間の闘争:岩渕佑里子「寛政〜天保期の養生所政策と幕府医学館」(2000)

 今回も修論のために幕府による公的な医療施設の歴史についての研究論文を読みました。

岩渕佑里子「寛政〜天保期の養生所政策と幕府医学館」『論集きんせい』22、2000年、40-61頁。

 小石川養生所といえば、江戸時代に無料で貧民に医療を提供した施設として、小説や映画を通じてよく知られている。養生所に関する代表的な先行研究としては南和男の研究があり、養生所は「幕府の社会事業のなかで特異な存在」であるとして位置づけられている。しかし、南の研究は内部構造に関する基礎的な分析に留まっているため、当時の医学界における養生所の位置づけについては判然としない部分が多い。そこで本論は、養生所と同じく官立の医療施設であった医学館との間の交渉について検討することで、それぞれが医療機関として幕府から期待されていた役割を明らかにすることを試みている。

 最初に養生所と医学館の歴史や特徴について概説される。1722(享保7)年に、町医・小川笙船による目安箱への投書をきっかけとして設立された養生所は、貧窮者に対する無料の医療などを提供し、「御仁政」としての幕府の貧民救済対策として位置づけられていた。一方、同じ官立の医療施設である医学館は、多紀氏の私塾であった躋寿館が1791(寛政3)年に江戸幕府直轄にされたものである。主として官医やその子弟への医学教育を目的としており、養生所のように施療を中心とする施設ではなかった。
 養生所と医学館との関わりは、医学館の中心人物であった多紀氏の動向によるところが大きい。多紀氏とは考証学派の立場から旧来の典薬頭に対抗し、18世紀後半頃から伸張してきた医家である。寛政期には松平定信から強い信任を受け、多紀氏・医学館の勢力はますます拡大している。そして、定信との良好な関係性によって、多紀氏・医学館は定信の寛政改革のなかに自らを重要な存在として位置づけようとした。定信の自叙伝『宇下人言』では、寛政期における官医の質の低下などを嘆き、医制改革の必要性を訴えていくが、その改革内容のほとんどは多紀氏の建言と主導によって推進されていた。
 多紀氏が進言した医制改革の中で最も特筆すべきなのが、すべての官医を対象に考試の受験を義務づけた点である。定信が嘆いていた官医の質の低下をチェックするため、そして、優秀な官医を番医や奥医へと選抜するために制度化されたこの考試によって、医学館は自らの幕府における重要性を高めようとしたのであった。こうして、多紀氏は実質的に官医の人事権をほぼ掌握し、支配するまでの権力をもつことになる。

 次に、本論文の中心となる医学館と養生所との交渉について検討される。支配権を高めていった多紀氏であったが、養生所の人事権だけはその支配下に置くことができなかった。というのも、養生所については町奉行所が人事権および運営権を掌握しており、医学館はそれに関与することが制度上不可能であったからである。つまり、同じ官立の医療施設でありながらも、制度的には養生所と医学館とは完全に分離されていたのであった。
 しかし、医学館は養生所の人事権について関心を示し始める。1793(寛政5)年、若年寄から医学館と養生所の合同経営に関する諮問を受けた多紀氏は、合同経営こそ拒否したが、養生所における医療の劣悪さを指摘し、改善案を申し出ている。改善案には養生所の医師数の増大や医師の人選を医学館がおこなうことなどが盛り込まれていた。そして、ここでの多紀氏の思惑は、当時の医学館が直面していた問題によるものと考えられる。すなわち、当時、医学館に出席希望する者が多くなり、医学館での臨床経験の不足、および、指導者数の不足へと陥ってしまっていたため、養生所を第二の臨床教育施設へとしようと多紀氏は目論んでいたのではないかと著者は指摘している。
 しかしながら、結局、寛政の人事干渉は失敗に終わった。天保期に入ると、養生所では役人の不正、病人の生活の、治癒率の低迷、入院希望者数の低下など、施設の衰退が顕著になっていく。そして、このときにもまた医学館から養生所への人事干渉が行われている。しかし、結局これも養生所の独立性を理由に退けられることになった。養生所を支配する町奉行所からの説明では、医学館における能力至上主義を批判し、養生所はあくまで経験第一とする施設であるから、その統合は望ましくないということであった。ここにおいて、官立の医療施設としての養生所と医学館の二極体制が確立したのであった。
 このような二極体制は寛政期には確立していたが、天保期にも人事に対する干渉がおこなわれたのは、養生所に内在する弱点、すなわち、「二重の支配」という支配の曖昧さの問題があったからであると考えられる。つまり、養生所は町奉行所支配でありながら、養生所の医師たちの身分上の実質的な支配者は若年寄であるため、医師に関して町奉行を通さずに種々の願いを出すことが出来たのである。そして、さらにまた別の弱点として、医療行為の専門性の高さゆえ、町奉行所が養生所での医療内容の善し悪しを自らで把握することができない問題もあった。事実、医学館は養生所を自らの内に取り入れようとするとき、この点を執拗に攻撃したのである。これにより、医学館は何度も養生所への介入をはかるが、結局、成功することはなかった。

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