幕府の貧窮民対策としての社会事業:南和男「養生所の成立と実態」(1969)

 小石川養生所に関する先駆的かつ基礎的な先行研究を読みました。こちらも修論用メモ。

南和男「第五章 養生所の成立と実態」『江戸の社会構造』塙書房、1969年、294-341頁。

江戸の社会構造 (塙選書67)

江戸の社会構造 (塙選書67)

 江戸幕府による社会事業は、災害などの発生後に臨機的で単発的な恤救ばかりで、継続的・恒久的におこなわれたものはほとんどなかったとされる。しかし、小石川養生所は「幕府の社会事業のなかで特異な存在であった」と著者は特徴付けている。本論はその養生所が設立されるに至った背景から、その組織・運営などの基礎事項をまとめた研究である。特に、その設立背景について、当時の貧窮民の増加という観点から捉えた点が、本論の特徴であると言えるだろう。

 著者はまず、養生所設立の社会的背景として、当時の貧窮民や非人の増加を指摘している。最大都市江戸は、絶えず流入する農村民や都市市況の停滞により生み出される都市下層民を抱えており、彼ららが無宿・野非人に転落してしまうことが多くあった。この点については、本書の「第二章 幕政改革と無宿・野非人対策」に詳しいが、元禄末期にはじめて幕府はその対策に乗り出すことになる。例えば1699(元禄12)年には江戸の本所に仮小屋を建て、恤救をおこなっている。そして、享保期(1716年〜)に入ると幕府の社会事業は進展をみせる。例えば、1723(享保8)年に出された町触では、飢饉や天災などのあとに恤救するのではなく、事前に準備をすすめ、さらに疾病者のためには恒久的な救済がおこなう旨が記されている。
 そして、1722(享保7)年に小石川伝通院前の町医・小川笙船が施薬院(のちの養生所)の設置を目安箱へ投書している。まさしく幕府の社会事業が進展していったこの時期に、「御仁政の一端」として「鰥寡孤独并に貧しくて薬用のよすがなき病者の為め」に設立が建言された本施設は、はからずも吉宗が以前から留意していた事項と通ずるところがあり、設置が容認されることになった。

 以下に続くのは、養生所の組織に関する基礎事項の詳細な検討であるが、ここではそのいくつかを取り上げたい。まず養生所の対象については、当初、看病人がいない「病苦に悩む貧窮者」であったが、次第にその範囲は「寄子之類」でも貧窮の病者、「無宿非人の外の行倒人」と拡大されている。そのとき、収容人数も当初の40人から150人までに増やしたが、最終的には117人に落ち着いている。次に病者の逗留期間については、設立当初は特に規定は設けられていなかった。しかし、入所希望者が増え、全ての者が全快するまで収容することができなくなり、1733(享保18)年に8ヶ月までがその滞留最長期間として定められ、それを過ぎると重病人でも退所しなくてはならなくなった。最後に、最も興味深いのが、養生所に関する世間での悪い噂を町奉行が払拭しようとしている点である。例えば、町奉行は「人参を使用すると言っても和人参である」、「看病人は非人である」といった風評を当を得ていないものとして江戸中の名主に知らせている。ここに幕府の養生所運営に関する積極的な姿勢を見いだすことができるだろう。
 町奉行の努力もあって、享保期には定員以上の当留人を抱えていた養生所であったが、文政期以降(1818年〜)は収容人数が定員を大幅に下回っていく。特に天保期以降の養生所は衰退期であったと言えるだろう。著者はその理由を具体的な資料を提示しつつ、養生所内部の構造的な問題によって説明している。例えば、看病仲間と呼ばれる施設職員の横暴が挙げられる。看病仲間たちは病者に不正な金銭取引を強要することで、清潔な部屋の斡旋をおこなたり、生活必需品の押し売りをおこなっていた。また、医師が怠慢であったことも理由として挙げられ、あるときは投薬拒否さえおこなわれていた。著者は同時にいくつかの外在的な理由も提示している。例えば、設立当初の人々の期待が薄らいだことや名主が届け出を怠ったこと、さらには当時の医学・衛生状況の変化などが挙げられているが、これについては資料に基づいて検討されてはおらず、今後の検討課題として残されている。