沖縄・奄美大島におけるハンセン病者とキリスト教者:杉山博昭『キリスト教ハンセン病救済運動の軌跡』(2009)#3

杉山博昭『キリスト教ハンセン病救済運動の軌跡』大学教育出版、2009年、143–221頁。

キリスト教ハンセン病救済運動の軌跡

キリスト教ハンセン病救済運動の軌跡

 「第四章 沖縄の療養所の設立とキリスト者の役割」では、沖縄県立国頭愛楽園の設立前後におけるハンセン病者救済運動が検討されている。「癩予防ニ関スル件」(1907年)では、沖縄のハンセン病者は熊本の九州療養所の管轄であると定められていたが、実際にそこに入所する者は少なく、彼らは十分なケアを受けることができていなかった。そんな中、1935年に光田健輔や賀川豊彦らが参加しておこなわれた「沖縄の癩事業座談会」において、同年に開設した鹿児島のハンセン病療養所・星塚敬愛園に沖縄のハンセン病者を移送してはどうかと提案がなされた。それを受けて、民間のキリスト教団体である沖縄MTLの強力な支援のもと、その移送が進められることになった。時を同じくして、自らハンセン病患者でありながら、沖縄でキリスト教伝道をおこなっていた青木恵哉が、沖縄にハンセン病療養所を設立しようと進めていた。徳島出身の青木は、名護近くの嵐山に土地を購入し、そこに療養所の設立を試みたが、1932年の嵐山事件にみられるように、その設立に対しては沖縄の住民から強い反発に遭った。しかしながら、療養所の必要性を強く訴え続けることで、沖縄MTLとの協力のもと、1938年に晴れて沖縄県立国頭愛楽園(1941年に国立化)を設立することができた。
 沖縄におけるハンセン病救済運動は、隔離政策の枠内から出なかったという点など、本土のそれと共通する部分は多い。しかし、異なる点もあった。第一に、それが患者もコミットしておこなわれた点である。沖縄のハンセン病救済運動において、その中心には間違いなく青木恵哉の存在があった。彼に協力した沖縄MTLのキリスト教者がそうであったように、青木もまた本土出身であったため、沖縄における患者の悲惨な状況をある種の熱意をもって改善しようと試みたのである。第二に、牧師たちが教派を超えて密接な協力体制を築いたことである。青木は聖公会であったが、彼を支援した沖縄MTLの者は救済軍、バプテスト、日本基督教会など様々であった。なお、沖縄の聖公会にとって、愛楽園内の教会はその伝道の中心的な場所であると考えられていた。
 第二〜四章は戦前におけるプロテスタント系のハンセン病者救済運動が主に注目されていたが、「第五章 奄美大島におけるカトリックの影響」では、戦後のカトリック系の救済運動が鹿児島の奄美をケースに検討される。奄美はもともとハンセン病者の多い地域であると言われていたが、彼らに対する隔離政策は積極的には進められてこなかった。第四章でもみたように、1935年に沖縄・奄美ハンセン病者が集団で星塚敬愛園に移送されることもあったが、その数はそれほど多くなく、奄美には依然として多くの患者が残っていた。それに対応するために、1937年には官製の奄美救癩教会が、1943年に奄美和光園が設立され、患者の収容が進められていくことになる。
 奄美和光園の管理者および入所者の多くはカトリックを信仰した。その背景には、1891年にはじめて奄美大島カトリック宣教が開始されて以来、紆余曲折は経ながらも、この地にはカトリックの信者が多かったことがあった。さらに、入所者の間では、カトリックに入信すると教会から物資が得られると信じられていたことも関係しているだろう。こうして、1951年に和光園にやってきたアメリカ人神父のパトリック、および1952年に園の事務長となった松原若安を中心に、カトリック信仰に基づいた救済活動がおこなわれたのである。
 奄美和光園でカトリックの影響力が大きかったことは、他の地域で展開したハンセン病者救済運動とは全く異なる救済運動を生み出すことにつながった。なかでも特徴的なのが、奄美和光園では患者の結婚・出産が容認されていた点である。戦前には国民優生法(1940年)、戦後には優生保護法(1948年)などよって、全国のハンセン病療養所で患者の断種手術という人権侵害がおこなわれていたが、和光園の管理者たちはそれに真っ向から対立したのだ。すなわち、カトリックにおける中絶の禁止という信条を、パトリックや松原がハンセン病者たちにも平等に適用していたのであった。ただし、その子どもに感染してしまう恐れから、和光園は患者が子どもを養育することは認めなかった。代わりに、アメリカ人神父のゼロームがベビーホームを設置し、そこでのべ40〜50人の子どもの養育がおこなわれたという。このようにして、ハンセン病療養所で整備されていった児童福祉であったが、その事業は園内にとどまらず、次第に奄美大島全体に広がっていった。つまり、療養所における患者の出産・養育という問題への対応が、島全土の福祉制度を整備するきっかけとなったのである。