バシュラールとパストゥールにおける臨床医学の科学性:カンギレム「十九世紀における「医学理論」終焉への細菌学の効果」(2006)

ジョルジュ・カンギレム「十九世紀における「医学理論」終焉への細菌学の効果」『生命科学の歴史――イデオロギーと合理性』杉山吉弘訳、法政大学出版局、2006年、61–89頁。

生命科学の歴史―イデオロギーと合理性 (叢書・ウニベルシタス)

生命科学の歴史―イデオロギーと合理性 (叢書・ウニベルシタス)

 かつてフーコーは『知の考古学』において、知の歴史上のいくつかの閾を取り上げてみせた。それはたとえば、実定性、認識論、科学性、形式性などのレベルにおける知の転換についてである。それに対しカンギレムは、フーコーが明示的に区別することはなかった2人の医学者に注目する。すなわち、実験医学のバシュラールと細菌学のパストゥールである。カンギレムは両者の間に、臨床的な科学性への貢献の有無において大きな断絶があることを指摘しようとするのである。彼らの前に、医学史上最も効果ある臨床的成果を獲得していたのは、ジェンナー(1748–1817)の牛痘法であった。しかし、ジェンナーの発想はその後のバシュラールといった医学者には理解されなかった。カンギレムは本章で、それから一世紀を経た後、パストゥールらが医学者ではなく化学者の協力を得て、ジェンナーの考えを実効的なものへと作り上げていく過程を描き出している。
 18世紀終わりから19世紀初頭にかけて、フーコーが「臨床医学の誕生」と呼んだ医学史上の大転換が起きる。古代から18世紀中頃に至るまで、医学をめぐる理論・体系は何度も移り変わっていき、一つの理論に医学が収斂することはなかったし、医療実践のレベルでも劇的な成果を生み出すものはあらわれず、18世紀には治療をあきらめ、ヒポクラテス的な無害の原則に回帰する現象さえ起こった。しかし18世紀末から19世紀初めに、治療的懐疑主義の合理的なアプローチがあらわれたり、生理学が古典解剖から解放され、ひとつの自立した学問となるなどの大きな変化が起きたのである。
 その新しい医学理論が生まれる背景には、当時、ヨーロッパの医学者たちを支配した医学体系であり、史上最後の医学体系を提示したスコットランド人医師のジョン・ブラウン(1735−1788)の存在が大きかった。ブラウンは『医学原論 Elementa Medicinae』(1780年)のなかで、「生命とは一つの強いられた〔不自然な〕状態である」、「〔医師は〕決して無活動であってはならず、自然の力を信頼するな。自然は外部の事物がなければ何もなしえない」といった言葉を残し、新たな病因観および医師の治療的役割について論じた。フランスでは、ブルセ(1772–1838)、マジャンディ(1772–1838)、ベルナール(1813–1878)らの生理学的医学あるいは実験医学がその考えを受け継いだ。たとえばマジャンディは、医学の場所を病院から実験室に、実験対象を人間から動物に、有機体に変化をもたらす要因をガレノス(生薬)調製から薬化学に変えた。またベルナールは、実験医学の理論にはもはや科学的革命は存在しないと断言し、その科学が漸進的にかつ動揺なしに増大、進歩すると主張した。しかしながら結局、ベルナールらの実験医学のプロジェクトはイデオロギーレベルに留まっており、臨床上の成果につながることはなかった。事実、マジャンディは治療については懐疑主義的な立場を保持し、これまでの医師となんら変わりない治療観を示していたのである。
 18世紀末から19世紀はじめにかけて、ベルナールらの実験医学のようにかつてないほど洗練された医学理論が提示されたにもかかわらず、その一世紀前に提示されたジェンナーの牛痘法ほどのインパクトのある臨床医学はこの時代には生み出されず、それに対する正当な評価も与えられなかった。結局、ジェンナーの発想を受け継いだ臨床医学があらわれるのは、医学とは別の分野、すなわち化学分野における新たな療法の誕生を通じてであった。すなわち、1870年代からのドイツ化学工業の進展によって、医学史上初めていかなる医学理論からも自由で、実効的な治療法である化学療法が生み出されたのである。その代表者はドイツのエールリヒ(1854–1915)であるが、彼はベーリング(1854−1917)による血清療法に着想を得て、化学合成物を使った療法を開発した。病人の血清を人に投与することで病気を予防するという新たな免疫学的知見に基づき、ある微生物の毒素に特異的な親和性をもつ化学合成物をつくったのである。さらにこの時代には、アニリン染料にみられるように、特定の化学構造に色をもたせ、新たな視覚表象が可能となっていた。こうした科学・産業界での発展が、ジェンナーの牛痘法に接続しうる化学療法をもたらしたのである。
 エールリヒの化学療法にはバシュラールらが追い求めたような実験医学の特徴を見出すことができるかもしれない。しかし化学療法の発想は、バシュラールらの実験医学というよりむしろ、パストゥールやコッホの細菌学の考えに近い。というのも、パストゥールはこれまでの医学的知見に基づいてではなく、同時代の化学的知見に多くを負うことで医学思想上の革命をおこなったからである。パストゥールは、光学異性体に関する実験から、微生物の特性と分子の構造的非対称性を関係づける。かつてマジャンディが、場所・実験対象・有機体に変化をもたらす要因という三つのレベルで新たな試みをおこなっていたが、パストゥールはそれに第四の契機を加えたのである。すなわち、生体の病理学的問題を生体上に見いだすのではなく、化学的に純粋な幾何学的形態である結晶上に求めたのである。ここにおいて、細菌、発酵、病気が同じ統一理論のなかで結びつけられ、マジャンディやベルナールらが創出していた医学の諸モデルは「イデオロギーの最高天」に追い払われることになったのである。

関連エントリ・文献

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知の考古学 (河出文庫)

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臨床医学の誕生 (始まりの本)

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目次:『日本医史学雑誌』60(1)、2014年3月

 『日本医史学雑誌』の最新号(60(1)、通巻1553号)が届きましたので、今回も本号の目次を掲載しておきたいと思います。

<原著>

・土屋悠子「『御製本草品彙精要』編纂の序幕――『孝宗実録』弘治16年8月9日の条をめぐって」
・安西なつめ・澤井直・坂井建雄「ニコラウス・ステノによる筋の幾何学的記述――17世紀における筋運動の探究」
・梶谷光弘「華岡青洲門人石堂鼎と妹背家――華岡家を支え続けた功労者」
・藤原聡子・月澤美代子「精神予防性無痛分娩法の導入と施設分娩における妊婦管理への影響――1953年〜1964年の日本赤十字本部産院および大森赤十字病院における実践」

<ひろば>

・菅野幸子「近代ギリシャの啓蒙期における解剖学・生理学の受容」

<資料>

・梶谷光弘「華岡青洲(3代随賢)末裔(本家)所蔵の国別門人録」について(3)」
・池田文書研究会「池田文書の研究(48)」

<記事>

・消息:井手研「山手病院(Bluff Hospital)の銘板に刻まれた人名を巡って――元英国領事Malcolm Edwards氏の手記より」
・例会抄録

<書籍紹介>

緒方洪庵記念財団除痘館記念資料室(編)『大阪の除痘館』<改訂・増補 第2版> (評者:渡辺幹夫)

大阪の除痘館 (1983年)

大阪の除痘館 (1983年)

※リンクは初版本

・池本卯典・吉川泰弘・伊藤伸彦(監修)『獣医学概論――獣医学教育モデル・コア・カリキュラム準拠』(評者:逢見憲一)

獣医学概論―獣医学教育モデル・コア・カリキュラム準拠

獣医学概論―獣医学教育モデル・コア・カリキュラム準拠

若木太一(編)『長崎 東西文化交渉史の舞台――ポルトガル時代 オランダ時代』(評者:渡辺幹夫)

所蔵品展「饅頭・柏・オリーブ 山口進の画業と交友」東京大学駒場博物館

所蔵品展「饅頭・柏・オリーブ 山口進の画業と交友」会期:2014年3月3日〜4月11日、於:東京大学駒場博物館
HP:http://museum.c.u-tokyo.ac.jp/exihibition.html#yamaguchi

 東京大学教養学部の正門には、柏の葉とオリーブをかたどった旧制第一高等学校の校章が印されています。そのデザインをおこなったのが、長野県上伊那郡東箕輪村出身の画家・山口進(1897–1983)でした。駒場博物館における今回の所蔵品点は、山口進に焦点をあわせ、彼の駒場での活動を記録した資料や、彼の作品などが展示されています。
 展示は三部構成になっており、「I 山口進と一高」では、山口が大正14年より一高の寮務掛として任命されたことを示す記録や一高の教授陣らとの書簡が展示されています。「II 山口進の画業」では、彼の描いた水彩画や版画、書画、あるいは長野帰郷後の文筆活動を示す『しなの』、『まつしま』といった雑誌が展示されています。
 個人的に特におもしろかったのは、二階の「III 正門の完成と越境事件」というコーナーです。一高では伝統的に、学生はいかなるときも正門を通って出入りするべきだという「正門主義」が奉じられていました。そのため、門限を過ぎて正門が閉まっていても、その正門を乗り越えて寮に戻ることが習わしとなっていました。しかし、一高が本郷から駒場に移転し、山口進デザインの正門が昭和13年1月に完成したことをきっかけに、その正門主義に違反する越境事件が起きたのです。というのも、新たな正門があまりに立派であったために、それを登った寮生たちがしばしば転げ落ちてケガをしていました。それゆえ、寮生たちは次第に正門主義を破るようになり、近くの低い垣根を跳び越えて、寮に戻るようになっていったのでした。そして、昭和13年4月、ある日の夜遅くに、風紀点検委員会が正門主義に違反している寮生7名をみつけ、彼らをとらえます。規則に違反した学生の処分をめぐって、学生を退学処分にすべきだという強硬な意見も出ましたが、結局は謹慎とすることで事件は落着しました。博物館では、事件当日の宿直日記や事件の様子を振り返った第一高等学校寄宿寮(編)『向陵誌 駒場編』などが展示されています。
 なお、今回の所蔵品展で展示されていた書簡や日誌の記録は、会場で配布されているパンフレットに翻刻されて記載されており、非常にありがたいです。また、それと同様の「解説シート」が駒場博物館HPにアップされていますので、関心がある人は是非ごらんください。

植民地時代から第二次大戦後までのアメリカにおける医学教育:Kaufman "American Medical Education”(1980)

Martin Kaufman, "American Medical Education,” Ronald L. Numbers, ed., The Education of American Physicians: Historical Essays, Berkeley and Los Angeles: University of California Press, 1980, pp. 7–28.

The Education of American Physicians: Historical Essays

The Education of American Physicians: Historical Essays

 本論文は、植民地時代から第二次大戦後に至るまでのアメリカにおける医学教育の歴史を概観するものである。19世紀になってもアメリカの医師の大半は徒弟制度によって医師としての訓練を受けていた。そういった制度は植民地時代にみてとれ、16歳以下の少年は師のもとで従者として5〜7年ほどの訓練を受けていたという。彼らは馬の世話をしたり、部屋を片付けたり、請求書を集めたりしながら、師の診療の様子をみることで医学について学んだのである。そういった少年たちのなかで、上流階級のごく限られた者だけがエディンバラ大学などのヨーロッパの医学校に学びにいくことができた。そして、そういった人物が各地の医学校の教授職に就くことになる。なお、植民地時代の医師は全部で3000人ほどであったが、そのうちヨーロッパで学ぶことが出来たのは300人ほどであった。
 アメリカで最初の医学校が設立されたのは、1765年のフィラデルフィアにおいてであった。エディンバラ大学で医学を学んだ者たちは、植民地にも医学校をつくる必要を感じ、その大学医学部を範にした医学校をつくったのである。1768年には10人の生徒がその学校から医学学士を受けた。19世紀初めまでにはハーバードをはじめとして合計5つの医学校が設立され、その後も各地に次々と医学校が設立されるようになっていった。具体的には、1810年から1840年の間には26校が、1840年から1877年までには47校が新たに設立され、1876年までには全国で80の医学校が存在していた。そういった医学校を設立しようとした理由としては、なんといってもその経済的な利潤があげられる。この頃の医学校はその運営費を多額の授業料を払ってくれる学生に完全に依存していたために、他校と競うようにして学生の獲得に熱心になっていた。そのため、学校間での競争も激しくなり、学位獲得に必要な授業期間を短くするなどして学生の関心を引こうとした。なお、アメリカの医学校で基礎として教えられたのは、解剖学、植物学、化学、婦人病・小児病、博物学、産科学、生理学、医療の原理・実践、外科の原理・実践の9科目であったという。
 金ぴか時代(1865–1893年)になっても私立の医学校は増加し続けた。1880年には90校であったのが、1890年には116校になり、1900年には151校にまで増えている。しかしながら医科学の発展により、医学に係る費用がかさむようになると、各校はこれまでのように学生の授業料のみに頼って学校を運営するのが難しくなりはじめる。同時に、医学の内容自体も高度になっていき、これまでのような伝統的なカリキュラムでは対応できないようになっていった。そういったなかで、理想的な医学校のあり方を提示したのが、ボルティモアのジョンズ・ホプキンス医学校であった。この学校は、大学からの補助金を引き出し、生徒の学費への依存からの脱却に成功した。同時に、ドイツの医学教育に範をとり、4年制であり、ラボでの実験や臨床教育に重きをおくカリキュラムへと刷新した。それに伴い、世紀転換期にはアメリカ医学校における医学教育を改善しようという動きがあらわれはじめる。たとえば、1890年にはアメリカ医師会(American Medical Association; AMA)が医学教育の改善について議論する年会を開いたし、その年会はアメリカ医学校協会(Association of American Medical Colleges; AAMC)という新組織へとつながり、1903年にはAMAがのちに医学教育評議会(Council on Medical Education)となる委員会が立ち上げられている。
 こうした流れのなかで、20世紀初頭にアメリカ医学教育の大改革を提案する、歴史的な報告書が提出される。その報告者は、教育者として知られていたフレクスナー(Abraham Flexner, 1866–1959)であった。彼はまず、全国の医学校が定員割れを防ぐために、入学基準に違反した入学を許していることが問題視し、さらに医学校の実験室や臨床施設が不十分であることを指摘した。フレクスナー報告を受けて、AAMCやAMAの医学教育評議会は、全国医学校の調査に乗り出し、基準を満たさない私立の医学校などは次々と閉鎖させられていった。こうして、1910年には155校あったのが、1920年には85校となり、1941–1942年には77校にまでその数は激減していった。
 しかしながら、フレクスナー報告によって問題がすべて解決したわけではなかった。医学の専門分化が進んでいたために、これまでの医学教育のカリキュラムを保持していくことが難しくなるという、新たな問題が生まれていたのである。すなわち、どの医学生もすべての専門分野を学ぶ必要があったために、既存のカリキュラムに加えて新たに生まれた専門分野を短い時間で教えられるようになり、学ぶべきことが飛躍的に増加していった。その結果、医学に関連する人文学や社会科学などがカリキュラムから削除されるようになり、医学教育が科学化が進んでいったのである。そのような事態を打開するために、各人のキャリアプランに即したカリキュラムへと作り直すべきだと提案されるようになる。なかでも、ウェスタリザーブ大学の取り組みは先駆的であり、1950年に同大学は学生の必修科目を減らし、それぞれの関心に応じた選択科目を多くとれるようなカリキュラムをはじめた。そして1950年代から1960年代はじめ頃には、ウェスタリザーブ方式が各医学校でも実施されるようになっていくのであった。

1900年前後のドイツにおける言語治療学:梅原秀元「学校と発話障害児」(2014)

梅原秀元「第2章 学校と発話障害児」山下麻衣(編)『歴史のなかの障害者』法政大学出版局、2014年、49–81頁。

歴史のなかの障害者 (サピエンティア)

歴史のなかの障害者 (サピエンティア)

 本論文は、先行研究で一定程度論じられてきたろう者の歴史研究に対し、聴覚を部分的に喪失した児童に関する歴史に注目を喚起している。とりわけ、1900年前後のドイツにおける「つかえずに話せない」子どもに対して、どのような対応がおこなわれていたかについて、まず当時の言語治療学に関する支配的な学説を概観し、その後、デュッセルドルフにおける実際の言語治療コースの事例を検討している。
 19世紀後半のドイツでは、発話障害に関する原因や治療法について、心理的アプローチを取る方法と生理的アプローチを取る方法が対立していた。前者については、バーデン公国やブラウンシュヴァイク公国あるいはオーストリアのウィーンにおいて盛んで、その代表者として精神科医オズワルト・ベルクハンがあげられる。一方、後者はプロイセンにおいて主流であった。なかでもグッツマン親子の活躍は目覚ましく、彼らによって発話障害と身体器官の異常が結びつけられて考えられるようになった。父アルベルトは、発話障害を呼吸・発声・発音を強化する練習を通じて克服できると考え、1879年にその理論を書籍にまとめている。息子ヘルマンは医師として父の理論を医学的に基礎づけようとした。そして1905年にはベルリン大学医学部に言語治療学のコースを設置することに成功し、医学の一分野として言語治療学を確立するに至った。なお、プロイセン文部省も彼ら親子の理論を早くから支持し、1884年にはアルベルトの方法を各地域に薦めている。
 グッツマン理論はプロイセンデュッセルドルフ市にも広がっていったことが、市立公文書館の未刊行史料などからも確認できる。まず養護学校では、既に1886年から言語治療がおこなわれていたが、1895年にグッツマンの方法が養護学校教師に採用され、本格的な言語治療が進められるようになる。その年に試験的なコースが開始され、翌年から本格的にはじまった言語治療コースには30人の児童が参加し、1913年になると120名が参加するまでになったという。そこで主導していた教師ホリックスの著した本からは、普通に話すことは人間的であり、精神が普通であることの証左であるという考えが示され、養護学校における言語治療の重要性が指摘されていた。一方の民衆学校(市民層の子弟が集ったギムナジウムとは違い、多様な背景をもつ子どもが集まっていた)には、養護学校開設後も多くの難聴児が通っていた。しかし、そういった児童のためのコースが試験的に設置されたのは1908年まで待たなくてはならなかった。その翌年には常設コースとなり28名の児童が参加し、読唇術の授業を受けた。ここには、18世紀後半のヨーロッパにおける聴覚障害児教育の傾向がみてとれる。すなわち、フランス語圏では手話および文字によるコミュニケーションが支配的であったが、ドイツ語圏では音声のコミュニケーションが重視されていたために、読唇術の訓練が課されたのである。
 なお、1860年代にデンマークの医師ヴィルヘルム・マイヤーが扁桃腺炎が難聴をもたらすと指摘して以来、難聴あるいは発話障害は扁桃腺の病気と関連しているという考えが広がっていった。たとえば、1913年にデュッセルドルフ民衆学校の言語治療教師が、とある児童に対しコースに参加するには扁桃腺を切除するようにと要求した。両親および彼を診断した医師は手術の必要性は無いと否定したが、教師は手術を受けなければ受講させないと言い張った。このことは、扁桃腺と発話・難聴を関連づける考えが人々に広がっていたこと、また、言語治療の教師が専門職として確立していたことを示唆している。

内藤記念くすり博物館

・内藤記念くすり博物館

HP:http://www.eisai.co.jp/museum/
住所:岐阜県各務原市川島竹早町1
最寄り駅:JR岐阜駅、名鉄一宮駅ほか

 2014年2月29日訪問。行きは名鉄犬山線「江南」駅からタクシーで15分ほど(2000円ぐらい)かけて博物館へ。帰りは博物館から名鉄バス「川島口」まで歩き(25分ぐらい)、バスで20分ほどかけて「名鉄一宮」駅へ。アクセスがよい場所にあるというわけではありませんが、にもかかわらず、その素晴らしいコレクションは医学史研究者であれば必ず一度は訪れるべき博物館の一つです。
 医薬史の日本最大級のコレクションをもつ内藤記念くすり博物館は、メディアなどでもしばしば取り上げられており、医学史を専門とする方だけでなく、一般の方にも人気のある博物館です。展示されている資料も、色彩豊かなものが多く、見ていて楽しいものばかりです。博物館に入ってすぐに目に入るのは多数の薬店の看板です。これだけ大きな看板が店先に出ていたら、ついつい覗いてみたいと思わせるようなものでした。その後、常設展がはじまりますが、最初に出迎えてくれるのは古代中国で病除けの神獣とされた「白沢」の置物です。おじさんのような顔でありながら、獣の身体をもつその姿をみると確かになんとなく守られている気がしないことはありません(笑)。ちなみに江戸時代にコレラが流行したときには白沢を描いた絵が流行し、人々はそれを身につけて病除けをしたそうです。それに続くのは、漢方医学に関する大きな絵画、屏風、彫像などから典籍や写本、絵馬、人形など本当に多数の種類のコレクションです。みていて少しハッとするのは、江戸時代の経絡人形でしょうか。白塗りの人形に、全身の経絡を示す点・線が描かれています。元禄5(1692)年に、岡本一抱の同門の医学者・井原道悦によってつくられたその人形は、その後筑紫流按腹の笹亦家に200年以上も受け継がれたものだそうです。もちろん、その他にも実際の薬(生薬を含む)も展示されており、それらがどのような道具を使って、どのような手順で調剤されていたかを示す案内も示されています。また、特別展示も開催されており、僕が訪問したときは「くすりと医療の照古鑒今(しょうこかんこん) ――漢方の源流と医薬の近代化産業遺産」(会期:2013年4月26日〜2014年3月30日)がおこなわれていました。これは、2009年に博物館所蔵のくすり看板・広告、製薬道具などが「近代化産業遺産認定」を受けたことを受けて企画されたもので、展示室では「使い捨てないカイロ」などが紹介されていました。なお入口では、これまでの企画展などに関する図録が多数販売されており、こちらも非常に魅力的でした。
 なお、博物館のOPAChttp://search.eisai.co.jp/php/valuable_search.php:ttile=コチラ)では、資料関係は和装本のみ全件検索が可能です。とくに、利用頻度の高い資料については、既にデジタル化・一般公開されているものも多く、それらはリスト化(http://www.eisai.co.jp/museum/information/facility/archive/index.html:ttile=コチラ)されています。そのリストにはまだ掲載されていないものでも既にデジタル化されているものもあるらしいので、関心があれば問い合わせてみるとよいでしょう。一方、古文書などの目録は一般には公開されていないので、担当の方におおよその関心の分野をお伝えして、照会することになります。

吉岡彌生記念館

 2014年2月26日訪問。JR掛川駅よりバスで25分ほどかけ「東京女子医大入口」に向かい、そこから徒歩5分ぐらいで資料館に。なお、料金は片道400円前後だったと思います。隣には東京女子医科大学・大東キャンパスがあります。
 東京女医学校(現、東京女子医科大学)の創始者として有名な吉岡彌生ですが、その生誕地はこの吉岡彌生記念館がある掛川市(元、遠江国城東郡土方村)でした。展示コーナーは彌生の生涯を3つの時期に分けて紹介するものでした。女医を志して済生学舎に学んだ時期、女性への医学教育の機会を確立するために奔走した時期、そして戦後、女性の地位向上のために尽力した晩年の3つ時期です。個人的に興味深かったのが、彌生はあくまで女性が医師になることは女性の地位向上のための一手段であると考えており、ずっと女性の地位向上を最終目標として掲げていた点です。
 この資料館では複製資料をうまく活用しながら、彌生の日常生活に関わるオリジナル資料も一部展示しています。展示の仕方としては非常にオーソドックスなタイプであり、とてもコンパクトにわかりやすく彌生の生涯を知ることができます。なお、彌生に関するオリジナルな資料のほとんどは東京の東京女子医科大学史料室・吉岡彌生記念館にあるようです。また、この資料館の近くには彌生が生まれた鷲山家の病院(鷲山病院)があり、現在も開業されています。

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