資生堂企業資料館

 2014年2月25日訪問。JR掛川駅より歩いて20分ほど。1992年に開館し、隣には資生堂アートハウスという美術館もあります。なお、路線バスでも行けますが遠回りするので結局歩くのと同じぐらいの時間がかかってしまいます。
 資生堂企業資料館は、朝日新聞のおこなっている「大人が楽しめる企業博物館」調査で2位にもランクインされたほど一般の人気が高い博物館です。その噂に違わず、化粧品やその広告の移り変わりを実物をみながら鑑賞できるこの資料館は、一言でとても「美しい」展示をおこなっていると言えます。その個性的で、魅力的な展示には海外からも注目されており、マサチューセッツ工科大学はその広告資料を用い、"Selling Shiseido: Cosmetics Advertising & Design in Early 20th-Century Japan"というインターネット上の展示を行っています。こちらも非常に興味深いです。
 日本医薬史に関連して興味深かったのは、資生堂創始者であり、日本ではじめて医薬分離を提唱した福原有信(1848–1924)が、高木兼寛(1849–1920)から処方箋の依頼をされていたことを示す史料が展示されていたことです。このことからもわかるように、海軍病院薬局長をつとめることになる福原と、海軍軍医総監となる高木にはとても密接な関係があったようです。
 なお、所蔵資料については、やや古いですが『資生堂企業資料館蔵書目録 1992.4〜1996.3』(1996年)が出版されています。

関連リンク・文献

精神分析の凋落と精神ケア市場の競争激化:ショーター『精神医学の歴史』(1999)

エドワード・ショーター「第八章 フロイトからプロザックへ」『精神医学の歴史――隔離の時代から薬物治療の時代まで』木村定訳、青土社、1999年、343–387頁。

精神医学の歴史―隔離の時代から薬物治療の時代まで

精神医学の歴史―隔離の時代から薬物治療の時代まで

 本書の最終章である第八章では、精神分析の退潮とともに、精神科医の「科学的」な診断・治療への再帰が描かれている。しかしながら、ソーシャル・ワーカーや臨床心理士、さらには製薬業界の参入によって精神病をめぐるマーケットの拡大したために、精神医学における科学性が歪められ、混迷を極めていくことになったと指摘されている。
 19世紀の精神医学が焦点をあわせたのは入院患者であったが、20世紀終わりの精神医学はそれまでファミリー・ドクターに診てもらっていた患者あるいは全く医者に診てもらえなかった患者に関心をもちはじめた。精神医学者たちは、従来考えていた病理の閾値を可能な限り下げることで、より多くの患者を獲得していこうとしたのである。たとえば、戦闘による心的外傷をあらわしていたはずのPTSDは、今やショッキングな映画を見た後の子どもたちの状態をPTSDという言葉で表現されるようになっている。このような事態が起きた背景には、一方で精神医学のマーケットにおける競争の激化があった。それは、医師資格をもたないソーシャル・ワーカーや心理士といった新たな参入者の増加によってもたらされた。たとえば、1951年時点ではわずか2000人にすぎなかった精神科的ソーシャル・ワーカーの数は1985年には5万5000人にまで跳ね上がったし、心理士たちも、複雑な治療体系を必要とせずに精神療法がおこなえるとする『来談者中心療法』(1951年)の出版を機に、その数を増やしていった。その結果、1990年までには臨床心理士とソーシャル・ワーカーの数は精神科医の数を大幅に上回ることになった。もう一方では、そのような精神ケアを要求する人々が増加したこともまた、精神科医の診断の閾値を下げることにつながった。ただし、ここでサービスの提供を訴えた人々は、実際に精神医学上の問題をもっている病者というよりむしろ、そういった疾患を経験していないにもかかわらず自らの生活が不幸であると捉えている人々であった。そのため、実際に治療を受けるべき人はそれほど精神科医にはかからず、何ら障害を抱えてない者が多く病院へと押し寄せたのである。
 病気を恣意的に拡大していった精神医学であったが、そもそも精神医学はほかの医学に比べると疾病の分類が恣意的になりやすい問題を抱えていた。というのも、精神医学では病気の原因が確定できないことが多いために原因よりも症状に即して病気を診断することが一般的であり、そのために様々な症状を一つの病気にまとめあげる際には常に恣意性と困難が伴っていたのである。それに対する不満は診断に無関心な精神分析の隆盛により、長い間露呈することはなかった。しかし、治療成果の統計的な証明を拒否してきた精神分析が疑問視されるようになり、同時に、他領域から市場の独占を揺るがそうとしてくる者があらわれるようになるに連れて、その診断法をより科学的なものにしようという機運が高まってくる。とりわけ、それまで支配的であった精神分析的診断法から、「科学」を奪い返すメルクマールとなったのは『精神障害の診断と統計のためのマニュアル DSM−III』(1980年)の編纂である。ここにおいて、これまで精神力動というタームによって説明されていたものが、実証主義的に説明されるようになったのである。こうして精神分析から解放されたことで、「科学」へと再帰することになると思われた精神医学であったが、皮肉なことに精神医学はさらに方向性を見失い、混迷をきわめることになった。そこでのキーワードもやはり「市場」である。
 フロイトの時代が終わり、科学的な精神医学が追求されるようになったとき、それを最初に後押ししたのは薬学的知識であった。しかしそのマーケットの旨みに製薬会社が気づいたことで、精神薬理学と呼ばれる新たな分野は再度非科学的な特徴を示し始めるようになった。科学的な精神薬理学の時代には、ミルタウン(1955年;抑うつ薬)やヴァリウム(1963年;抗不安薬)、あるいはベンゾジアゼピンなどの臨床効果の高い医薬が開発され、これらは一般にも多く出回った。ここにおいて、これまで同情的なラポールで患者を慰めることが精神科医の美徳とされていたのが、薬によって病気を治療する方がよっぽど患者のためになると精神科医が実感するようになったのである。しかし、人々がそういった精神薬に殺到するのをみた製薬会社は、精神医学自体の診断をゆがめることで、自分の市場に適したものへと精神医学を変えようとした。すなわち、その治療薬があると宣伝することで、これまで一般には何の問題とされていなかった疾病を人々に問題であると意識させようとしたのである。こういった文脈であらわれたのが、ザンタックという潰瘍薬に次いで世界で二番目に売れている薬、プロザックである。この精神薬はまた別の抗うつ剤であったが、しかしながらそこではうつ病の範囲が一気に拡大されている点が特徴的である。1987年に米国食品医薬品局(FDA)は抗うつ剤としてのプロザックの使用許可を出したが、1990年に米国・マクリーン病院の二人の研究者がそれがうつ病だけでなくパニックや強直症(持ち物を落とす発作)にまで効果があると示唆する論文を発表した。そこでは、そういった症状に共通する「感情圏障害(ASD)」という言葉が用いられ、世界の人口の三分の一がASDにかかっていると述べられ、その後その言葉は人口に膾炙し、アメリカの精神科医受診者の半分がASDであるとされるまでになった。こうして、プロザックは単なる抗うつ薬としてではなく、人間の困難や不安をも含む「うつ病」への薬として、いわば万能薬のようにとらえられるようになっていったのである。二百年の間に、精神科医の役割は治療的アサイラムの治療者からプロザックの門番へと変化したのであった。

精神病院の症例誌にみる患者のデモグラフィ:鈴木晃仁「脳病院と精神障害の歴史」(2014)

 鈴木先生が長年にわたっておこなってきた、王子脳病院のカルテ調査の成果がついに刊行されました。「本章は速報的な性格が強い」ということですが、日本の精神医療史ひいては医学史一般に対して、症例誌という新たなパースペクティブをはじめて導入した、非常に重要な論文です。方法論など多くを学べ、医学史家は必読だと思いますので是非お買い求めを。

鈴木晃仁「第3章 脳病院と精神障害の歴史」山下麻衣(編)『歴史のなかの障害者』法政大学出版局、2014年、91–132頁。

歴史のなかの障害者 (サピエンティア)

歴史のなかの障害者 (サピエンティア)

 精神障害の歴史では二つのヒストリオグラフィが支配的である。一つは、正常と異常を区分する仕方の歴史を追っていくものであり、これはフーコーの『狂気の歴史』以来、現在まで多くの歴史家がインスピレーションを与えられて採用しているものである。しかし、精神障害がいかに定義されてきたかを問うだけで、実際にその内実を問わないのであれば、その議論の妥当性に疑問が投げかけられるかもしれない。そのため、精神障害者たちの生活や彼らを取り巻く社会構造に注目するという、また別のヒストリオグラフィが要請されるのである。ただし、後者のようなヒストリオグラフィを採用したとしても、それがただちに研究成果に結びつくわけではない。というのも、精神障害者たちの生活をうかがい知るような史料が長い間欠落していたからである。それに対し1980年代の欧米で、生活を浮かび上がらせることができる新たな史料として、精神病院における患者の症例誌への関心が集まっていった。症例誌とは患者の病院での記録をまとめたものであり、それにより大量のデータの取り扱い、質が高い情報、そして医学権力の刻印という三つの問題群を新たに医学史研究に提供することになった。しかし日本ではそういった史料が利用されることはいぜんとして少ない。そこで本論文は、そういった新たな史料=症例誌を日本の医学史にはじめて適用を試みようとしている。
 本論文が対象とする症例誌は、1901(明治34)年に東京府北豊島郡に設立された私立精神病院の王子脳病院に所蔵されていたものである。1919(大正8)年の精神病院法によって、この病院は東京府の代用病院に指定されて以降、戦前までに病床数を着実と増やしていったが、それに伴い多くの患者記録を残している。その大正期・昭和前期を中心とするカルテからは、これまでの日本精神医療史上のいくつかのテーゼを修正することができるだろう。たとえば、江戸期には短期的な治療の対象であった精神病=狐憑きが、近代化に伴い不治の病と定義されることで、精神病者を長期にわたる監禁へと追い込んだ、というものがある。しかし、王子脳病院のカルテを統計的に分析すれば、このテーゼが正しくないことがわかるだろう。というのも、王子脳病院に入院する私費患者と公費患者では、前者の在院期間は平均して一ヶ月から一ヶ月半分、後者は一年から二年半であった。なお、私費患者は短期間の在院ののち、「軽快・未治」のまま退院することが多く、公費患者はそれより長い在院期間を経て、その三分の二は病院で死を迎えている。
 また別の精神医療史上のテーゼとして、精神医学者・呉秀三(1865–1932)のものがあげられる。呉は西洋の精神病院では家族が定期的に見舞いにくることに対し、日本の家族は患者を精神病院に捨てに来ることが多い、という印象を語っている。しかしこのことも王子脳病院のカルテに即すと正しくはない。典型的な患者家族の面会パターンは一ヶ月に一回あるいはそれ以上であり、定期的な訪問をおこなっていたのである。著者はその様子を、現代の老人ホームとよく似ていることを示唆している。呉が提示したまた別のテーゼは、家族が患者を引き取りに戻ってくるのは、患者が作業療法に従事できるかどうかがキーになっていた、というものである。呉の考えは、精神医学史家のアンドリュー・スカルの「存在の商品化」論を想起させる。すなわち、資本主義の発展によって、患者身体が経済的価値と結びつけられ、精神病院へ収容する規準がその価値に依っていたというものである。この点についてもカルテをみるかぎりは、確かに作業療法の有無が退院との相関があるようだが、その反証事例を多くみつけることができるため、単純に「存在の商品化」をそこに見出すことはできず、今後の検討課題とされている。
 最後の論点は、カルテに見る治療の歴史である。精神病院の歴史では、しばしばその監禁的な側面が強調されるが、精神病院において治療はどのように位置づけられていたのだろうか。王子脳病院のケースでは、私費患者であるか公費患者であるかによって、治療のもつ意味合いが異なっていた。私費患者の場合、少なくとも1940年頃には、精神病院は最新の治療を提供してくれる場所であると捉えられていた。そのため、入院してからわずか数日の間に、インシュリンショックや電気痙攣療法の治療を受けており、それを受け終わるとすぐに退院するケースが目立っている。一方、公費患者の場合、治療は病院の秩序を乱そうとする者を「管理」するためにおこなわれたものであった。たとえば、患者がいくら医師との関係が悪くても、その人物が暴力行為などに走らなければそのまま放っておかれていた。しかしいったん「興奮」、「暴行」、「不良行為」などがあらわれると、その患者はナルコポンなどの神経系に作用する薬が投与されたのであった。

労働災害による身体障害区分の揺れ:長廣利崇「工業化と障害者」(2014)

長廣利崇「第4章 工業化と障害者」山下麻衣(編)『歴史のなかの障害者』法政大学出版局、2014年、133–168頁。

歴史のなかの障害者 (サピエンティア)

歴史のなかの障害者 (サピエンティア)

 本論文は、1916(大正5)年に日本で工場法施行令に基づいた障害者福祉がはじまり、1936(昭和11)年に施行令が改正されるまでの期間を一画期と捉え、その間の労災による障害のあり方が混乱していたことを指摘している。その混乱の原因となったのは、工場法施行令における障害の規定が抽象的であったことであった。つまり、その抽象性を打開するために1927(昭和2)年に発せられた「身体障害ノ程度」に関する通達が、元の工場法施行令と対立的な内容をもったがために、混乱が生まれたのである。1916(大正5)年に施行された工場法施行令の第7条では、障害が労働できるかどうかという「機能障害」によって規定されていた。それに対し、1927(昭和2)年に社会局長官名で地方長官および鉱山監督局長に出された「身体障害ノ程度」通達では、「損傷部位」による障害の判断基準が提示され、その基準が現場でも支配的となっていった。そのため、企業に勤める医師たちや暉峻義等ら産業衛生協議会のメンバーによって、両者の間の矛盾が指摘されるようになる。その結果、1936(昭和11)年の施行令改正によって、「身体障害ノ程度」通達に基づき、障害の程度をより細分化・厳密化した「身体障害等級障害扶助料表」が新たに提示されることになった。なお、この区分は現在の労働者災害補償法施行規則の障害等級表にほとんど形を変えずに残っている。

ロックフェラー財団の登場と中国での医療宣教の変化:Stanley "Professionalising the Rural Medical Mission in Weixian, 1890–1925"(2006)

John R. Stanley, "Professionalising the Rural Medical Mission in Weixian, 1890–1925," David Hardiman, ed., Healing Bodies, Saving Souls:Medical Missions in Asia and Africa, Rodopi, Amsterdam and New York 2006, pp. 115–136.

Healing Bodies, Saving Souls: Medical Missions in Asia and Africa (The Wellcome Series in the History of Medicine)

Healing Bodies, Saving Souls: Medical Missions in Asia and Africa (The Wellcome Series in the History of Medicine)

 世紀転換期における細菌学理論の登場や、ロックフェラー財団の強力なバックアップにより、中国都市部の公衆衛生は大きな変化を遂げようとしていた。では、地方ではどういった変化が起きたのだろうか。本論文は、山東省・威県へのアメリカ長老派教会の医療宣教を事例に、20世紀初頭に医療宣教をおこなう論理が転換したことを論じる。すなわち、医療宣教師たちは自らの医療行為を宣教の一手段と捉えるのではなく、医療それ自体を目的として捉えるようになった。このことは宣教と医療の乖離を推し進めたように思えるかも知れないが、実のところ、ロックフェラー財団の登場により、現地の宣教団はこれまでに増して宣教医たちを後押しするようになった。
 地方のなかでも豊かな経済力をもっていた威県は、その住民が保守的であったことから、宣教師の伝道に対しては否定的であった。そのため、多くの宣教団はそこに永続的なステーションを置くことをしなかったが、それにもかかわらず、アメリカ長老教会は1881年にそこにステーションを置くことを決定する。1883年には宣教師居住地の医師としてやって来たホレス・スミスは、敵対的な中国人に対して医療提供をおこなうことで、彼らに何とか伝道をおこなおうとした。その後、現地人クリスチャンの手助けもあって、威県に学校や病院、聖書学校やクリスチャンスクールを順調に建設していくことができた。威県は山東省ミッションの中でも最も大きなものとなっていったのである。
 伝道に励んでいた医療宣教師たちであったが、1900年頃から、現地人の魂を癒やすことより、身体を治癒することに専念したいと思うようになっていた。折しも1886年に、とある英字雑誌に「衛生による救済」という記事が載り、その著者によって中国人の家庭の不衛生が改善されるべきだと主張された。このとき、それまで家庭への関与を全くおこなっていなかったことに気づいた医療宣教師たちは、公衆衛生を整備していくことの重要性を認識したのである。1903年に威県にやって来た医療宣教師チャールズ・ロイズは、まさに公衆衛生事業をその地で推し進めようとした。彼がまず取りかかったのは、感染症が起きたときにそれが広がらないように、隔離病棟を病院につくることであり、その他にもベッド数の増加などを計画した。ロイズはそれらの費用の拠出を山東省ミッションに求めたが、そういった提案に対し伝道委員会をあまり快く思わなかった。そのため彼は、また別の財源として1914年に設立されたロックフェラー財団の中国医療委員会に注目した。ロイズは現地人がとくに苦しむ結核の治療法を新たに導入する必要を説き、中国医療委員会に資金提供を訴えた。しかし、ちょうどロックフェラー財団の調査団が現地にやって来たとき、川の氾濫により彼の病院が壊滅してしまったため、助成金の一件は流れてしまった。
 ロックフェラー財団の登場によって、医療宣教師たちは伝道ではなく医療に集中することが可能になったが、それは同時に彼らの所属していた伝道委員会の考えを変えるきっかけにもなった。ロイズより遅れて威県にやって来たハイムバーガー医師は、新たな病院建設のためにロイズの計画を簡素化した企画を提案した。しかしながら、査察に訪れたロックフェラー財団の調査団は、ハイムバーガーの現地での活躍は認めながらも、長老教会などが彼を十分にバックアップしていないという問題点を指摘し、助成金支給を見送った。つまり、ロックフェラー財団が資金提供をおこなう条件とは、その事業に対し現地組織のバックアップが既にあり、そのためにその事業が未来あるものとなると予期させるかどうかであった。そのことに気づいた長老派教会は、中国各地の病院を未来あるものとすべく、アメリカ国内での「100万ドルキャンペーン基金」に乗り出した。1917年にピッツバーグのシェイディサイド長老派教会で集まった1万ドルが威県の新病院へと寄付され、さらに同教会は寄付を集め、1925年には威県にシェイディサイド長老派病院が設立された。この新しい病院は、多くの近代的な衛生設備を備えており、その手術室には既に亡くなっていたロイズの名前が冠されたのであった。

香港における医療宣教の広がりと地域ボランタリズムの貢献:Wong "Local Voluntarism"(2006)

Timothy Man-Kong Wong, "Local Voluntarism: The Medical Mission of the London Missionary Society in Hong Kong, 1842–1923," David Hardiman, ed., Healing Bodies, Saving Souls:Medical Missions in Asia and Africa, Rodopi, Amsterdam and New York 2006, pp. 87–113.

Healing Bodies, Saving Souls: Medical Missions in Asia and Africa (The Wellcome Series in the History of Medicine)

Healing Bodies, Saving Souls: Medical Missions in Asia and Africa (The Wellcome Series in the History of Medicine)

 本論文は、ロンドン宣教協会の香港における医療宣教活動を三つの時期に分類し、それぞれの時期の特徴を抽出することを試みている。具体的には、香港がイギリスへ割譲された1842年から1858年、同地での医療宣教が再興する1880年代、そしてその活動が安定化する1900年代以降が検討される。その際、医療宣教を促進するアクターとして、中国人・西洋人による地域ボランタリズムに着目している。
 第一期の医療宣教活動は、中国で8番目の医療宣教師となるベンジャミン・ホブソンがロンドン宣教教会(The London Missionary Society; LMS)によって派遣されたことではじまる。ホブソンは、中国で設立されていた医療宣教協会(Medical Missionary Society; MMS)に加入し、1843年から1845年まで香港のモリソン・ヒルにあった病院で診療活動をおこなった。1843年時点で香港の人口が16000人程度であったにもかかわらず、その病院は2年の間で7221人の患者を診療している。ホブソンは1845年にいったんイギリスへと帰り、香港で中国人に西洋医学を教えるための学校を設立するための資金集めに奔走する。しかし、この計画はアメリカ出身で影響力のあった医療宣教師ピーター・パーカーの反対により挫折し、ホブソンはMMSを辞任してしまった。ホブソンの代わりにLMSが香港へと派遣したのは、医療宣教師のヘンリ・ヒルシュベルクであった。彼もまた2つの診療所を新たに開くなどして活躍したが、この時期になると、LMSが医療宣教部門への支出を渋るようになっており、1851年にはモリソン・ヒルの病院を海軍に委譲し、1853年にはヒルシュベルクもアモイへと移動する。その後、ウォン・フンという医療宣教師によって一時的に香港での医療宣教は行われるが、彼が1858年に広東へ行ったことで、その活動は途絶えることになった。
 第二期の医療宣教は、地元のボランタリズムの高まりを受けて、1880年代に活性化した。とりわけ、エマニュエル・ベリオス、ホー・カイ、パトリック・マンソンという三人の人物が重要である。アヘン貿易によって一山当てたベリオスは、1881年に西洋医学を奨励する病院のための資金を拠出した。LSMはそれを医療宣教再開のための病院建設資金にあてようとしたが、ベリオスの寄付だけでは十分ではなかった。そこであらわれたのが、香港のLSM会員でもあったホー・カイである。彼は亡くなったばかりの妻の名を病院に冠することを条件に、病院建設に関わる費用の全額負担を申し出たのである。それにより、1887年にアリス記念病院が設立された。同年には、カイやマンソンらの後押しによって中国人のための香港医学校が設立され、LSMの医療宣教はさらに波に乗る。ベリオスのような非宗教的な財界の大物、およびカイのようなクリスチャンの中国人がいたからこそ、この時代にLSMの医療宣教事業は復活しえたのであった。
 第三期の1900年代以降、地域のボランタリズムに支えられ、LSMの医療宣教は香港での地位を確固たるものにすることになる。1900年頃には、香港政府も中国の伝統的な医学が高い乳児死亡率の原因であると認めるようになっており、1904年には西洋医学に基づく産科病院が新設された。このとき、LSMもその病院に婦人宣教医師を派遣している。また、LSMは中国人のための香港医学校との友好的な関係も維持し、医療宣教師にそこで講義をおこなわせている。この医学校の評判は次第に高まっていき、香港からの入学者に留まらず、中国南部さらにはインドからの志願者もあらわれるようになった。さらにLMSはアリス記念病院に才能のある中国人医師を登用することで、中国人にもっと西洋医学に親しんでもらおうとした。しかし1923年にLMSの病院は、高名な社会的指導者や財力のある商人たちによって構成される地方委員会の管轄下に置かれることになる。だが、その後もLSMは何とかして香港での医療宣教を続けようとしたのであった。


広東システム下における最適な伝道方法としての医療:Lazich "Seeking Souls through the Eyes of the Blind"(2006)

Michael C. Lazich, "Seeking Souls through the Eyes of the Blind: The Birth of the Medical Missionary Society in Nineteenth-Century China," David Hardiman, ed., Healing Bodies, Saving Souls:Medical Missions in Asia and Africa, Rodopi, Amsterdam and New York 2006, pp. 59–86.

Healing Bodies, Saving Souls: Medical Missions in Asia and Africa (The Wellcome Series in the History of Medicine)

Healing Bodies, Saving Souls: Medical Missions in Asia and Africa (The Wellcome Series in the History of Medicine)

 広東システム下では、中国と欧米諸国との貿易はかなり制限されたものであった。このことは、中国での宣教師の活動も限定的にならざるをえなかったことも意味する。本論文は、そのような状況下における最適な伝道方法として、広東の宣教師たちが出版事業などによる伝道ではなく医療を通じた伝道が最適であると捉えていたことを明らかにしている。
 カトリックの宣教師は16世紀終わり頃には中国で伝道をおこなっていたが、プロテスタントの宣教師がはじめて中国に行くのは1807年のことであった。その先駆となったのはロンドン伝道協会(The London Missionary Society)のロバート・モリソンであり、彼は長年の間一人きりで広東での伝道活動をおこなっていた。しかし、1830年にはアメリカン・ボードの宣教師エリジャー・ブリッジマンと合流し、広東でのキリスト教伝道を押し広げようとするようになる。
 これとはまた別の文脈において、東インド会社に雇われた医師たちがマカオで大きな成功をおさめていた。その先駆は、1805年から種痘をおこなっていたアレキサンダー・ピアソンであり、彼に続いたジョン・リビングストンも種痘事業で活躍していた。その活躍に目を付けたロンドン伝道協会のモリソンは、リビングストンと協力して1820年に中国・西洋診療所を開院する。この診療所は1823年に閉院となるが、それに影響を受けたT.R.コレッジが1827年に眼科を中心とした診療所を開いた。この時期の中国では眼科といった西洋医学に対するニーズはかなり大きく、コレッジの診療所は多くの中国人患者を集めたのであった。
 そういった状況を目の当たりにしていたアメリカン・ボードの宣教師ブリッジマンは、母国の宣教団に宣教医を送ってもらうよう画策する。折しも、1834年ネーピア事件によって、中国側の西洋人に対する規制が激しくなっており、宣教師たちも出版活動を通じた伝道をするのが難しくなっていた。その代わりに、ブリッジマンは医療を通じた伝道に注目したのである。同年にはピーター・バーカーが初の中国への宣教医として派遣され、その翌年に広東で眼科を中心とする病院を開き、多くの中国人患者を獲得した。それと同時に、ブリッジマンやパーカーは病院の基盤となるような医療宣教協会を中国につくろうとするようになる。そのような動きに対し本国の宣教団は、宣教医の本分は医療ではなく伝道にあるとして否定的であったが、なんとか1838年にその協会の設立にこぎつけることができた。その翌年には、この協会が主導となってロンドン伝道協会から医療宣教師がマカオに派遣されている。
 アヘン戦争の勃発によって、中国の宣教医たちの活動は一時的に中断されることになったが、南京条約により五港が開港され、宣教師の活動もより自由になった。その後、パーカーはアメリカ政府の外交官に抜擢され、中国を後にすることになる。医療宣教協会は19世紀後半まで、パーカーの事例は中国における宣教医のモデルであるとみなし続けたのであった。