大陸をつなぐルートから研究対象へと変わる海洋:Reidy & Rozwadowski "The Spaces In Between"(2014)

 Isis, Focus読書会 #14 "Knowing the Ocean: A Role for the History of Science"での担当箇所のレジュメをアップします。

Michael S. Reidy and Helen M. Rozwadowski, "The Spaces In Between: Science, Ocean, Empire," Isis, 105(2), 2014, pp. 338–351.
http://www.jstor.org/stable/10.1086/676571
※上記リンクから無料DL・閲覧可能

 帝国科学の歴史は、帝国とその植民地における科学的営みについては多く記述してきたが、その間にある「海洋」に対しては全くと言ってよいほど関心を払ってこなかった。確かにある時期までは、海は新たな植民地までの単なるルートに過ぎず、それ自体が人々の関心を集めることはなかった、そもそも海は占有の対象であるとも考えられていなかった。しかし、19世紀中頃より科学者の間で、海洋それ自体が研究の対象になり、科学者たちは海に関する科学知識を積み上げていくことになる。このときに専門化していった海洋学の知識は、帝国を押し広げようと大海に乗り出した船乗りたちの大きな助けとなったし、そのような事実が科学知識に対する国家的な支援を引き出すことになった。つまり、これまで科学史においてほとんど注目を浴びることがなかった海洋学の歴史においてもまた、19世紀の他の科学分野と同じように、専門化・国家による援助・科学者の新たな自己認識などの現象が確認できるのである。
 もともとの海に対する関心は帝国主義に基づく商業的・政治的なアジェンダとともにはじまったが、そういった関心はすぐに科学や文化を取り入れることになる。19世紀において、海洋に関する知識増大に拍車をかけたのはイギリスとアメリカである。両国では産業化に伴って、遠方の海に行くことが可能になっており、海底電信ケーブルの敷設も進められていた。この時期に、海が単なるルートから研究対象として徐々に認識されはじめたのである。そして、海に対する関心が、空間的なアプローチと詳細な測定法が結びついたとき、海洋学は他の科学との関連性を高めていく。
 海洋の科学知識に関心をもった人々は、世界は海によってつながれているとするフンボルトの考えに共感していた。イギリスではヒューウェル(William Whewell)が空間的なアプローチという新たな方法論に基づいて潮汐研究をおこなった。それまではある地域の潮汐表を通時的にみることで潮の満ち引きを導いていたため、その計算が複雑になることがしばしばであった。しかしヒューウェルは異なる場所の比較という視点を導入したことで、一つの地域の潮汐表から他の地域の潮汐表を簡単に推論することを可能にした。なお、ヒューウェルは「科学者」という言葉を造語したことで知られるが、彼は科学者をこのようなプログラムを実践する者として捉えていた。
 19世紀中頃のアメリカでは、モーリー(Matthew Fontaine Maury)が国家による援助を受けて、海底の深浅測量を進めていった。このような測量は同時に深海生物に対する関心を高め、1858年にはイギリスの海洋調査船チャレンジャー号が海洋の生物調査をおこなった。海洋生物学に対してとくに大きな貢献を果たしたのはウォレス(Alfred Russel Wallace)であろう。彼は『動物の地理的分布』(1876年)において、地域ごとに番号を付して、その地域を色分けし、世界中の動物の分布を示した。彼の発想の独創的な点は、これまでにおこなわれてきた陸上の動物に対する関心を、海の視点から捉え返すことを提案した点である。すなわち、動物の分布は浅い海底でつながっていれば異なる大陸でも似た分布となり、深い海底であれば異なる分布となることを示したのであった。

論文:藤本大士「近世医療史研究の現在——民衆・公権力と医療」『洋学』21、2014、91–125頁。

藤本大士「近世医療史研究の現在——民衆・公権力と医療」『洋学』21、2014、91–125頁。

 論文が出版されました。本論文は、近世日本の医療史の研究動向をレビューした論文です。とくに、医療の社会史的アプローチをとったこれまでの論文を取り上げています。もしご関心のある方がいらっしゃいましたら、抜き刷り(あるいはPDF)をお送りさせていただきますので fujimoto.daishi@gmail.com までご連絡ください。なお、以下に本論文の参考文献一覧をアップします。
 執筆にあたっては、科学史・科学哲学研究室のみなさまから多くのコメントをいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

参考文献一覧(引用順/頁数一部割愛)

・田粼哲郎『在村の蘭学名著出版、一九八五年。
・塚本学「一八世紀後半の松本領上野組と医療――組をこえる地域社会」『松本平とその周辺地域における社会結合の諸形態とその変動 (中間報告書)』文部省科学研究費補助交付・一般研究(A)、一九八二年、一〜二六頁。
・青木歳幸『在村蘭学の研究』思文閣出版、一九九八年。
・青木歳幸「地域蘭学の構想と展開」『国立歴史民俗博物館研究報告』一一六、二〇〇四年、一〜一八頁。
・青木歳幸『江戸時代の医学――名医たちの三〇〇年』吉川弘文館、二〇一二年。
吉田忠「展望:蘭学史」『科学史研究』一五〇、一九八四年。
・青木歳幸「在村の蘭学と地域医療の近代化――幕末から明治初年の長野県医界」田粼哲郎(編)『在村蘭学の展開』思文閣出版、一九九二年。
・小川亜弥子『幕末期長州藩洋学史の研究』思文閣出版、一九九八年。
・岩本伸二「幕末期「在村医」の組織化への動向――美作津山の場合」『岡山県史研究』四、一九八二年、五五〜七九頁
・柴田一「近世後期における在村医の修学過程――備中の在村医・千原英舜の場合」『実学史研究』Ⅱ、思文閣出版、一九八五年、一七五〜二一〇頁。
・Ellen Gardner Nakamura, Practical Pursuits: Takano Choei, Takahashi Keisaku, and Western Medicine in Nineteenth-Century Japan, Cambridge, Mass.: Harvard University Asia Center, 2005.
・「特集 「医療と施薬」」『歴史学研究』六三九、一九九二年。
「特集 生命維持と「知」――医療文化をめぐって」『関東近世史研究』六二、二〇〇七年。
・海原亮『近世医療の社会史――知識・技術・情報』吉川弘文館、二〇〇七年。
・横田冬彦「益軒本の読者」横山俊夫(編)『貝原益軒――天地和楽の文明学』平凡社、一九九五年(のち、青木美智男・若尾政希(編)『展望日本歴史 一六 近世の思想・文化』東京堂出版、二〇〇二年)。
・安西安周『日本儒医研究』龍吟社、一九四三年(のち、青史社、一九八一年)。
・矢数道明『近世漢方医学史――曲直瀬道三とその学統』名著出版、一九八二年。
・山田重正『典医の歴史』思文閣出版、一九八〇年。
森潤三郎『多紀氏の事蹟』日本医史学会、一九三三年(のち、思文閣出版、一九八五年)。
・久志本常孝『神宮医方史』私家版、一九八五年。
・Keir Waddington, An Introduction to the Social History of Medicine, Europe since 1500, Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2011.
・Roy Porter, “The Patient's View: Doing Medical History from Below,” Theory and Society, 14(2), 1985, pp. 175–198.
・鈴木晃仁「医学と医療の歴史」社会経済史学会(編)『社会経済史学の課題と展望――社会経済史学会創立七〇周年記念』有斐閣、二〇〇二年。
・藤澤純子「近世の地域医療と医師――美作の医師仁木家を例として」『岡山地方史研究』六九、一九九二年、一〜一八頁。
・長田直子「近世後期における患者の医師選択――『鈴木平九郎公私日記』を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』一一六、二〇〇四年、三一七〜三四二頁。
・中山学「幕末江戸の病家における医療選択の実態――病人瀧澤太郎の介護記録を手がかりとして」関東近世史研究会(編)『関東近世史研究論集 二 宗教・芸能・医療』岩田書院、二〇一二年。
・有坂道子「幕末京都における医家と医療」京都橘大学女性歴史文化研究所(編)『医療の社会史――生・老・病・死』思文閣出版、二〇一三年、一七九〜二〇〇頁。
・新村拓『死と病と看護の社会史』法政大学出版局、一九八九年。
・新村拓『老いと看取りの社会史』法政大学出版局、一九九一年。
・柳谷慶子『近世の女性相続と介護』吉川弘文館、二〇〇七年。
・板原和子・桑原治雄「江戸時代後期における精神障害者の処遇(一)」『社会問題研究』四八(一)、一九九八年、四一〜五九頁。
・妻鹿淳子「病者収容施設としての牢屋敷」『岡山県立記録資料館紀要』五、二〇一〇年、一〜一八頁。
・バーバラ・ドゥーデン『女の皮膚の下――十八世紀のある医師とその患者たち』井上茂子訳、藤原書店、一九九四年。
沢山美果子「女医の診察記録にみる女の身体」『性と生殖の近世』勁草書房、二〇〇五年。
・Susan L. Burns, “The Body as Text: Confucianism, Reproduction, and Gender in Early Modern Japan,” Benjamin Elman, Herman Ooms, and John Duncan, eds., Rethinking Confucianism: Past and Present in China, Japan, Korea and Vietnam, Los Angeles: UCLA Asia Pacific Monograph Series, 2002, pp. 178–219.
・太田妙子「江戸時代の女性医師(一)――稲井静庵・松岡小鶴・高場乱」『医譚』八七、二〇〇八年、五三八八〜五三九五頁。
・太田妙子「江戸時代の女性医師(二)――眼科医・俳諧師 度會園」『医譚』八八、二〇〇八年、五五〇四〜五五一四頁、太田妙子「近世―江戸期の《女性医師》」『医譚』八九、二〇〇九年、五六八六〜五六九八頁。
・澤登寛聡「平塚明神并別当城官寺縁起絵巻の成立――家光政権期の当道座検校山川城官貞久との関連で」『文化財研究紀要』六、一九九三年、一〜六三頁。
・澤登寛聡「〈コメント〉細野健太郎氏・長田直子両氏の報告に寄せて――出版物から読む呪術・医療と日常生活文化」『関東近世史研究』六二、二〇〇七年、八四〜九一頁。
・長田直子「幕末期の宗教者と医師――府中六所宮神職にみる医師・蘭学・種痘の一考察」関東近世史研究会(編)『関東近世史研究論集 二 宗教・芸能・医療』岩田書院、二〇一二年、三〇七〜三二八頁。
・Susan L. Burns, “Nanayama Jundô at Work: A Village Doctor and Medical Knowledge in Nineteenth Century Japan,” East Asian Science, Technology, and Medicine, 29, 2008, pp. 62–83.
立川昭二『近世 病草紙――江戸時代の病気と医療』平凡社、一九七九年(のち、『江戸 病草紙――近世の病気と医療』ちくま学芸文庫、一九九八年)。
立川昭二「コメント 病いのフォークロア」二宮宏之・樺山紘一福井憲彦(編)『叢書・歴史を拓く 『アナール』論文選 三 医と病い』新評論、一九八四年(新版、藤原書店、二〇一一年)。
昼田源四郎『疫病と狐憑き――近世庶民の医療事情』みすず書房、一九八五年。
・大島建彦『疫神とその周辺』岩崎美術社、一九八五年。
・H・O・ローテルムンド『疱瘡神――江戸時代の病いをめぐる民間信仰の研究』岩波書店、一九九五年。
・高岡弘幸「都市と疫病――近世大坂の風の神送り」『日本民俗学』一七五、一九八八年、二〇〜三七頁。
・佐藤文子「近世都市生活における疱瘡神まつり――「田中兼頼日記」を素材として」『史窓』五七、二〇〇〇年、一一九〜一三〇頁。
香川雅信疱瘡神祭りと玩具――近世都市における民間信仰の一側面」『大阪大学日本学報』一五、一九九六年、一九〜四五頁。
・東昇「近世肥後国天草における疱瘡対策――山小屋と他国養生」『京都府立大学学術報告(人文)』六一、二〇〇九年、一四三〜一六〇年。
・川鍋定男「江戸時代、甲州における医者と医療意識」『山梨県史研究』七、一九九九年、六六〜一〇六頁。
・Ann Bowman Jannetta, Epidemics and Mortality in Early Modern Japan, Princeton: Princeton University Press, 1987.
・浜野潔「『日本疾病史』のデータベース化の試み」『関西大学経済論集』五四(三・四)、二〇〇四年、一一七〜一二八頁。
小林茂「近世の南西諸島における天然痘の流行パターンと人痘法の施行」『歴史地理学』四二(一)、二〇〇〇年、四七〜六三頁。
・川口洋「牛痘種痘法導入期の武蔵国多摩郡における疱瘡による疾病災害」『歴史地理学』四三(一)、二〇〇一年、四七〜六四年。
・渡辺理絵「近世農村社会における天然痘の伝播過程――出羽国中津川郷を事例として」『地理学評論』八三(三)、二〇一〇年、二四八〜二六九頁。
・Akihito Suzuki, “Smallpox and the Epidemiological Heritage of Modern Japan: Towards a Total History,” Medical History, 55(3), 2011, pp. 313–318.
・Akihito Suzuki “ Social History of Medicine in Modern Japan: Introduction,” Historia Scientiarum, 22(2), 2012, pp. 63–67.
・脇村孝平「医療・公衆衛生システム――近現代日本における起源をめぐって」社会経済史学会(編)『社会経済史学の課題と展望――社会経済史学会創立八〇周年記念』有斐閣、二〇一二年、一四一〜一五四頁。
・鈴木晃仁「健康調査の歴史」近現代資料刊行会(編)『近代都市環境研究資料叢書 二 近代都市の衛生環境(東京編) 別冊(解説編)』近現代資料刊行会、二〇〇九年、七一〜九九頁。
・Daniel V. Botsman, Punishment and Power in the Making of Modern Japan, Princeton: Princeton University Press, 2005(ダニエル・V・ボツマン『血塗られた慈悲、笞打つ帝国。――江戸から明治へ、刑罰はいかに権力を変えたのか?』小林朋則訳、インターシフト、二〇〇九年).
・香西豊子「予防接種という〈衛生〉――種痘の歴史の反照から」『現代思想』三八(三)、二〇一〇年。
・香西豊子「アイヌはなぜ「山に逃げた」か?――幕末蝦夷地における「我が国最初の強制種痘」の奥行き」『思想』一〇一七、二〇〇九年、七八〜一〇一頁。
・Brett L. Walker, “The Early Modern Japanese State and Ainu Vaccinations: Redefining the Body Politic, 1799–1868,” Past and Present, 163, 1999, pp. 121–160.
・Brett L. Walker, The Conquest of Ainu Lands: Ecology and Culture in Japanese Expansion, 1590-1800, Berkeley: University of California Press, 2001(ブレット・ウォーカー『蝦夷地の征服 一五九〇〜一八〇〇――日本の領土拡張にみる生態学と文化』秋月俊幸訳、北海道大学出版会、二〇〇七年).
・Anne Jannetta, The Vaccinators: Smallpox, Medical Knowledge, and the 'Opening' of Japan, Stanford: Stanford University Press, 2007(アン・ジャネッタ『種痘伝来——日本の<開国>と知の国際ネットワーク』廣川和花・木曾明子訳、岩波書店、二〇一三年).
・二谷智子「一八七九年コレラ流行時の有力船主による防疫活動――宮林彦九郎家の事例」『社会経済史学』七五(三)、二〇〇九年、三一三〜三三六頁
・Akihito Suzuki, “Measles and the Spatio-temporal Structure of Modern Japan,” Economic History Review, 62(4), 2009, pp. 828–856.
・Pierre-Yves Donzé, “Studies Abroad by Japanese Doctors: A Prosopographic Analysis of the Nameless Practitioners, 1862–1912,” Social History of Medicine, 23(2), 2010, pp. 244–260.
・新村拓『古代医療官人制の研究――典薬寮の構造』法政大学出版局、一九八三年。
丸山裕美子『日本古代の医療制度』名著刊行会、一九九八年。
・「特集 古代の生命と環境」『歴史評論』七二八、二〇一〇年。
京都橘大学女性歴史文化研究所(編)『医療の社会史――生・老・病・死』思文閣出版、二〇一三年。
・Andrew Edmund Goble, Confluences of Medicine in Medieval Japan: Buddhist Healing, Chinese Knowledge, Islamic Formulas, and Wounds of War, Honolulu: University of Hawai’i Press, 2011.
・大石学『享保改革の地域政策』吉川弘文館、一九九六年。
・岩下哲典『権力者と江戸のくすり――人参・葡萄酒・御側の御薬』北樹出版、一九九八年。
・横田冬彦「近世村落社会における〈知〉の問題」『ヒストリア』一五九、一九九八年、一〜二九頁。
・塚本学『近世再考——地方の視点から』日本エディタースクール出版部、一九八六年。
・青木歳幸「権力と医療」長野県(編)『長野県史 通史編 四 近世 Ⅰ』長野県史刊行会、一九八七年。
・酒井シヅ『日本の医療史』東京書籍、一九八二年。
・菊池勇夫『飢饉の社会史』校倉書房、一九九四年。
鈴木則子『江戸の流行り病――麻疹騒動はなぜ起こったのか』吉川弘文館、二〇一二年。
・南和男『江戸の社会構造』塙書房、一九六九年。
・塚本学『生きることの近世史――人命環境の歴史から』平凡社、二〇〇一年。
・中山学「幕藩領主の医薬政策と民衆文化――仁政の文化構造的確立について」『関東近世史研究』六二、二〇〇七年、三〜三二頁。
深谷克己『深谷克己近世史論集 一 民間社会と百姓成立』校倉書房、二〇〇九年。
・倉地克直『全集日本の歴史 一一 江戸時代/十八世紀 十一 徳川社会のゆらぎ』小学館、二〇〇八年。
・大石学「日本近世国家の薬草政策――享保改革期を中心に」『歴史学研究』六三九、一九九二年、一一〜一八頁。
・遠藤正治本草学と洋学――小野蘭山学統の研究』思文閣出版、二〇〇三年、二六〜五六頁。
笠谷和比古徳川吉宗享保改革と本草」山田慶兒(編)『東アジアの本草博物学の世界』下巻、思文閣出版、一九九五年、三〜四二頁。
・今村英明「徳川吉宗と洋学(その二、医学・薬学)オランダ商館史料を通して」『洋学史研究』二〇、二〇〇三年、二五〜七四頁。
田代和生『江戸時代朝鮮薬材調査の研究』慶應義塾大学出版会、一九九九年。
・若松正志「唐人参座の設立について」『京都産業大学日本文化研究所紀要』二、一九九六年、一三七〜一六八頁。
・今井修平「江戸中期における唐薬種の流通構造――幕藩制的流通構造の一典型として」『日本史研究』一六九、一九七六年、一〜二九頁。
・西垣昌欣「江戸長崎屋の機能――文化期における「人参座用意金」の運用を中心に」『歴史学研究』七六七、二〇〇二年、二七〜四四頁。
・片桐一男『阿蘭陀宿長崎屋の史料研究』雄松堂出版、二〇〇七年。
・今井修平「近世後期における在方薬種業の展開――平野組薬種屋・合薬屋仲間を中心に」梅溪昇教授退官記念論文集刊行会(編)『日本近代の成立と展開――梅溪昇教授退官記念論文集』思文閣出版、一九八四年、二七五〜二九六頁。
渡辺祥子『近世大坂薬種の取引構造と社会集団』清文堂出版、二〇〇六年。
・山田慶兒(編)『東アジアの本草博物学の世界』上・下巻、思文閣出版、一九九五年。
・横山伊徳『日本近世の歴史 五 開国前夜の世界』吉川弘文館、二〇一三年。
・吉田伸之『日本の歴史 一七 成熟する江戸』講談社学術文庫、二〇〇九年。
・山口啓二『山口啓二著作集 一 近世史研究への旅立ち』校倉書房、二〇〇九年。
・松崎範子「熊本城下町における窮民の救済と社会保障」『熊本史学』九三・九四、二〇一一年、五九〜八三頁。
・庄司拓也「天保の飢饉下の秋田感恩講による孤児救済――近世の災害と民間救済活動」『専修史学』三一、二〇〇〇年、九三〜一〇八頁。
・山崎佐『各藩医学教育の展望』国土社、一九五五年。
・菅野則子『江戸時代の孝行者――「孝義録」の世界』吉川弘文館、一九九九年。
・妻鹿淳子『近世の家族と女性――善事褒賞の研究』清文堂出版、二〇〇八年。
・町泉寿郎「医学館の学問形成(一)――医学館成立前後」『日本医史学雑誌』四五(三)、一九九九年。
・岩渕佑里子「寛政〜天保期の養生所政策と幕府医学館」『論集きんせい』二二、二〇〇〇年、四〇〜六一頁。
・尾形利雄「会津藩日新館における医学(漢方・蘭方)の導入について」『上智大学教育学論集』一九、一九八四年。
・上野周子「紀州藩の医療政策と地域社会」『三重大史学』七、二〇〇七年、一〜二〇頁。
・平川新『全集日本の歴史 一一 江戸時代/十九世紀 十二 開国への道』小学館、二〇〇八年。
松本英治「福岡藩蘭学者青木興勝の長崎遊学と対外認識」『国立歴史民俗博物館研究報告』一一六、二〇〇四年、二三五〜二五四頁。
宮地正人『幕末維新期の文化と情報』名著刊行会、一九九四年、一七五〜二一二頁。
・張基善「仙台藩における諸医師とその把握・動員」『歴史』一〇九、二〇〇七年、七九〜一〇八頁。

中世と新しい人文主義的伝統の交差路に立つレオニチェノ:Hirai, Medical Humanism and Natural Philosophy(2011)

 とあるインテレクチュアルヒストリーの授業のアサインメントとして読みました。

Hiro Hirai, "Chapter 1 Nicolò Leoniceno between the Arabo-Latin Tradition and the Renaissance of the Greek Commentators," Medical Humanism and Natural Philosophy: Renaissance Debates on Matter, Life and the Soul, Leiden: Brill, 2011, pp. 19–45.

 ガレノス(129–216頃)にまでさかのぼることができる「形成力(plastic power)」という概念は、中世の発生学に関する議論でしばしば用いられていた概念であるにもかかわらず、歴史家によってほとんど検討されていない。ガレノスが“molding faculty”と呼んだ形成力の概念が、ペルシャの医師アヴィセンナ(980–1037)を介してラテン世界にまで伝わったときには、“formative power”などの言葉で表現されるようになっている。その後、12–14世紀には、注釈家のアヴェロエス(1126–1198)に代表されるように、ラテン世界においてしばしば検討される概念となった。本章が対象とするのは、そのような歴史的背景のもとに生み出された、フェラーラの医学人文主義者ニコロ・レオニチェノ(1428–1524)が著した『形成力について(De virtute formativa)』(初版1506年、再版1524年)である。この書は、ルネサンス世界最初の発生学の専門書であり、中世のアラビア・ラテンの伝統とルネサンス人文主義の交差路に位置づけられる作品である。同時に、ジャン・フェルネル(1497–1558;本書第2章)、ヤーコブ・シェキウス(1511–1587;本書第3章)、フォルチューニオ・リチェティ(1577–1657;本書第6章)ら、後の人文主義者の形成力の議論に対しても影響を与えた。以下では、『形成力について』の本文構成に従い、レオニチェノがいかに先行者を文献学者的な立場から批判してきたかが論じられる。
 『形成力について』において、レオニチェノはまず、中世ラテン世界ではほとんど知られていなかったガレノスに注目し、彼が形成力に言及した箇所へ着目する。レオニチェノが引用するのは『胎児の形成について』である。そこでガレノスは胎児の形成の原因については無知であると告白しており、これをもってレオニチェノは、ガレノスは形成力の同定をおこなっていなかったと確認する。しかしレオニチェノは、ガレノスの『精液について』というまた別の書の存在を知っていたので、その著作の議論を踏まえ、ガレノスが胎児の形成力とは植物の霊魂であると考えていたのではないかと推論する。同時にレオニチェノは、動物の形成力は身体の自然熱・内的熱(あるいは「体質」)に由来するとも考えており、ガレノスがヒポクラテスの見解と類似していたと指摘している。
 次にレオニチェノは、アリストテレス『動物発生論』における形成力に関する議論に注目する。このとき、レオニチェノは彼オリジナルのアリストテレス解釈を提示するよりむしろ、先行者とくにアラビアの哲学者たちによるアリストテレス解釈が誤っていることを文献学的に示すことに紙幅を割いている。ここで批判されるのはアヴェロエスとピエトロ・ダバーノ(1257–1315頃)である。誤りとしてあげられるのは、たとえば、アリストテレスは種子の熱は天体の熱と類似しているとしか捉えていなかったにもかかわらず、ピエトロは両者は同一のものであると考えられていたと解釈している点、アリストテレスは形成力を神の事物あるいは知性と関連づけたていたとピエトロとアヴェロエスが誤って結論づけている点、などである。
 レオニチェノのピエトロ・ダバーノに対する文献学的な批判は二つの特徴を有している。第一に、彼がガザのテオドル(1400–1476)によるアリストテレスの新たな翻訳書を大いに活用していた点である。このテクストは、ピエトロら中世の学者が依拠していた粗野な翻訳書よりも明快で正確であった。ピエトロが、アリストテレスが形成力と知性との類似性を指摘するにとどまっていたにもかかわらず、両者を同一であると誤って解釈してしまったのは、古い翻訳書に依拠していたことも理由にあげられる。第二に、古代ギリシャの注釈家の議論を援用していた点である。たとえば、ピエトロが形成力を可分であると論じていたのに対し、レオニチェノはテミスティオス(317頃–388頃)による『アリストテレス「魂について」注解』を引用しながら、その考えが誤りであると指摘する。なぜならその注解に、アリストテレスは形成力を身体と不可分であると考えていたことが示されているからである。さらに、同じ注解においてネオプラトニズム的な発想とアリストテレスの概念が接続されているのを踏まえ、アリストテレスが形成力について論じていないながらも、魂の乗り物については論じており、それが部分的には可分で部分的には不可分である考えていたとレオニチェノは指摘し、ピエトロの誤りを正すのであった。
 ピエトロの批判を終えたレオニチェノは、また別のギリシャの注釈家を参照しながら、アリストテレス主義的な立場から形成力という概念の再構成をおこなっている。形成力という概念を理解するときに、レオニチェノが重要視するのは種子の内的自然という考えであった。この概念はかつて、アフロディシアスのアレクサンドロス(200年頃に活躍)によって非理性的な力であると捉えられていた。それに対し、シンプリキウス(529–?年に活躍)の『アリストテレス「自然学」注解』では、種子の内的自然は理性的なものであると捉えられている。さらにシンプリキウスは、その自然というのはさらに上位の天体の運動に起因するという考えを提示し、ネオプラトニズム的な自然解釈を展開する。リオニチェノはこの考えに好意的で、動物の発生はそういった特徴をもつ自然に由来すると考えたのであった。
 最後にレオニチェノは、批判の矛先をピエトロ・ダバーノからアヴェロエスに変え、その形成力に関する理解の誤りを指摘する。アヴェロエスの第一の誤りは、アヴェロエスアレクサンドロスの議論を引きながら、アリストテレスは形成力を知性と関連づけていたと論じている点である。それが誤りであるのは、すでにみたように、アレクサンドロスは種子の内的自然を非理性的な力であると捉えていたからである。アヴェロエスの第二の誤りは、テミスティオスが形成力を身体から分離された霊魂であると考えていたと捉えている点である。これに対してもレオニチェノは、テミスティオスの『アリストテレス「魂について」注解』をひもときながら、テミスティオスの理論では必ずしも形相付与者のような身体から切り離された高次の主体の存在が想定されていなかったと指摘している。最後にレオニチェノは、アヴェロエスプラトン的な考えに影響を受けながらも、プラトンを批判しているという自己矛盾に陥っていることを指摘し、議論を終えるのであった。

自民族の起源および王国の歴史を知るためのルーン学研究:小澤実「ゴート・ルネサンスとルーン学の成立」(2014)

 とあるインテレクチュアルヒストリーの授業のアサインメントとして読みました。

小澤実「ゴート・ルネサンスとルーン学の成立――デンマークの事例」『知のミクロコスモス――中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』中央公論新社、2014年、69-97頁。

 ルネサンス期における古典語世界に対する関心の高まりは、西ヨーロッパにとどまらず北ヨーロッパにも広がっていった。本稿では、これまでのルネサンス研究では等閑視されてきたスカンディナヴィアに注目し、そこでのルネサンスの展開について検討している。具体的には、スウェーデンデンマークルネサンスで最も関心を集めた「ルーン文字」について、当時の知識人たちがいかなる動機あるいは方法でその研究に邁進していたかが示される。
  スカンディナヴィアでは、西欧的なルネサンスとはやや異なるルネサンス、すなわちゴートルネサンスが発生した。15–16世紀のスカンディナヴィアでも、西欧のように古代古典の復興という人文主義的な思想が広まっており、聖書や古典テクストの検討がなされた。しかし、スカンディナヴィア、とくにスウェーデンにおいて特徴的であったのは、自らの過去をゴート人と結びつける思想が生まれた点である。4世紀にローマ世界へ進出したゴート人は、のちにイタリア半島イベリア半島にそれぞれ王国を築いたとされ、彼らをスカンディナヴィアと結びつける考えが15世紀中頃までに広まっていったのである。この考えを大いに発展させたのがスウェーデンのマグヌス兄弟で、彼らは古代スカンディナヴィアのアイデンティティとしてルーン文字に重要な位置づけを与えた。その後、スウェーデン国王の官職をつとめていたヨハンネス・ブレウス(1568–1652)がルーン学研究を学術的に発展させ、ウプサラ大学のウーロヴ・ルドベーク(1630–1702)が愛国主義的な性格を付与しつつ研究をさらに進めた。
 では、スウェーデンの隣国デンマークでは、ルーン研究はどのように進められたのだろうか。デンマークにおいてルーン研究が活発になった最大の契機は、スウェーデンのようなゴート人の再発見ではなく、16世紀末のイェリング石碑の再発見であった。そもそもデンマークでは自国の起源をゴートに結びつける発想はほとんど取られていなかった。 代わりに、1586–1587年に発見されたイェリング石碑に、デンマークの現王朝との関わりを示すルーン文字が刻まれていたという事実が、デンマーク知識人をルーン文字研究に駆り立てることになった。その石碑にいち早く目をつけたのが、南ユトランドの統治代行を委任されていた知識人ハインリヒ・ランツァウ(1526–1598)であった。ランツァウは王室の祖を記念するイェリング石碑に強い関心を示し、人文主義的精神に基づき、イェリング墳墓の銅版画を作成するなどした。
  デンマークのルーン学研究において金字塔を打ち立てたのが、宮廷侍医ならびにコペンハーゲン大学医学部教授をつとめていたオラウス・ウォルミウス (1588–1654)であった。医師として働く傍ら、ウォルミウスは古遺物研究をおこなっていた。いやむしろ、初期近代の「驚異の部屋」を象徴するような彼の博物館が、のちのコペンハーゲンにある国立博物館になったことに鑑みると、彼は古遺物研究者としての方が有名かもしれない。ともあれ、ルーン文字にも関心を示したウォルミウスはルーン研究に関する書物を4冊著しており、そのなかでも『デンマークの古遺物に関する六書』(1643年)はルーン学の基礎を築き上げた分析が所収されている点で最重要著作である。しかしこの書は、これまでの研究において古遺物研究という広い観点から分析がなされるばかりで、ルーン学という観点から検討されたことはなかった。そのため、本論文はこの書に収録されたイェリング石碑に関する項目について、社会史的な観点から4つの特徴を抽出しようとする。第一に、ウォルミウスが彼の前にルーン学研究をおこなっていた学者たちを外国人として規定し、彼らの知らないであろうデンマークに固有の歴史書を引き出しながら、テクスト批判をおこなっている点である。第二に、ヨーロッパ中の知識人との文通によって新知識を獲得し、その知見をその書物に取り入れた点である。とくに、デンマークの間接的な支配下にあったアイスランドの知識人との交流が最も盛んであり、アイスランドの歴史書を著したアルングリームル・ヨーンソン(1568–1648)とはかなりの数の書簡を交換している。第三に、テクストだけではなく、銅版画によるルーン石碑の図版をその書物に多数収録した点である。この点は従来のルーン学研究には見られない特徴である。なお、ウォルミウスが図版を収録することができたのには、17世紀の古遺物研究において図版の提示が標準的な分析法となっていたという背景をあげることができるだろう。第四に、国家システムを利用して国内のルーンに関する情報を網羅していた点である。たとえば1622年には、デンマークノルウェーの管轄下教区で発見された古遺物の情報を、国王の命によってコペンハーゲンに集めさせている。以上のような、さまざまな次元の知識・情報のネットワークを活用し、ウォルミウスはルーンに関する基礎的研究をおこなったのである。

重視され、改革が模索され、排除されていく占星術:ラトキン「ヨーロッパ史のなかの占星術」(2014)

 とあるインテレクチュアルヒストリーの授業のアサインメントとして読みました。

H・ダレル・ラトキン「ヨーロッパ史のなかの占星術――中世・ルネサンスから近代へ」(菊地重仁訳)『史苑』74(2)、2014年、176–207頁。
http://id.nii.ac.jp/1062/00009135/
※ 上記リンクから無料閲覧・DL可能

 中世・ルネサンス期のヨーロッパの大学では、占星術が自由学芸のなかでも重要な科目であると位置づけられていた。13世紀のパドヴァ大学では、医学教授のピエトロ・ダバーノによって、医学を学ぶ者は占星術を学ぶ必要があると述べている。医学課程においてのみでなく、数学課程ならびに自然哲学課程にいおいてもまた占星術は重要な役割を与えられた。このような傾向はパドヴァ大学に留まらず、ボローニャ大学など他の大学でもみられ、17世紀に入るまで続いていく。
 しかし、17世紀に入ると占星術を改革しようという運動が本格化していく。そのような運動の萌芽は、すでに15世紀のピーコ『予言占星術駁論』(1496年に出版)にみられる。16世紀には、ピーコの批判を部分的に受け継ぎながら、ティコ・ブラーエやケプラーは、占星術天文学的・自然哲学的基盤の改革に取りかかっている。17世紀になると、フランシス・ベイコンが『諸学の振興について』(1623年)において、帰納法的方法を占星術に導入することで、その改革を真剣に提案している。ベイコンはまず占星術を、回帰占星術・出生占星術・選択占星術・質問占星術の四つに分類し、回帰占星術以外は根拠がないものとして喝破した。そしてベイコンは、占星術によって予言が可能であるとは認めつつも、その予言をより良いものとするには、過去の歴史を綿密に調査し、そこから規則を導き出す形で予言すべきだと論じたのであった。
 16–17世紀によって改革が提案された占星術であったが、そういった努力の甲斐なく、18世紀に入ると大学カリキュラム、具体的には数学・自然哲学・医学課程から除外されていくことになる。まず数学分野においては、数学教育を発展させた人物として著名なクラヴィウス(1537–1612)によって、数学教育から占星術が除外された。しかし、これが完全に数学と天文学の解離であったかと言われれば必ずしもそうではなく、同時期のイタリアやイングランドの大学では依然として数学課程において天文学が講じられた。天文学の数学課程から除外が明確化したのは18世紀に入ってからである。たとえば、エウスタキオ・マンフレディ(1674–1739)は『天の動きについての天体位置表』の序論において、そこから占星術的性格を取り除いている。次に自然哲学について。占星術廃絶論者であったニュートンデカルトに影響を受けたジャック・ルオー(1620–1675)は、『物理学論考』(1671年)において自然哲学から占星術を明確に除外した。その翻訳は世界中へと広がり、1740年代にはハーバード大学、イェール大学、ケンブリッジ大学などでも教科書として採用された。最後に医学においては、他の課程に比べると占星術は生きながらえたといえる。たとえば、ニュートンのかかりつけ医であったリチャード・ミードは『太陽と月の影響について』(1704年)などにおいて、機械論的医学の理論と占星術的性格をもつガレノス医学の実践とを接合してみせている。このような過程を経て、占星術は大学カリキュラムから排除されていくことになるが、その一部は神秘学と結びつき、18世紀になっても民衆文化のうちに生き残ることができたものもあった。

属領と植民地主義という支配・従属関係の連続性:塩出浩之「北海道・沖縄・小笠原諸島と近代日本」(2014)

塩出浩之「北海道・沖縄・小笠原諸島と近代日本」『講座 日本歴史 15 近現代 1』岩波書店、2014年、165–201頁。

近現代1 (岩波講座 日本歴史 第15巻)

近現代1 (岩波講座 日本歴史 第15巻)

 「植民地」という言葉が使われるとき、近代日本のそれとして真っ先にあげられるのは台湾や朝鮮といった国々であろう。そこには、植民者と原住民の間に支配・従属関係が形成されている。一方、北海道や沖縄、さらには小笠原諸島が植民地と捉えられることはあまりなく、それらはむしろ本国の「属領」として統治されていたと捉えられるべきだろう。そのため、植民地と属領はしばしば別個に捉えられるが、ともに本国とは異なる法的領域として位置づけられていたことを踏まえると、両概念はかなりの程度重なる部分があった。しかし、これまでは両者を関連づけて論じる議論はない。そこで本論文は、北海道・沖縄・小笠原諸島という三つの地域に注目し、植民地と属領との間の相関を示そうとする。著者はまず、それら地域が属領から本国に編入される過程を描き出す。本国編入が完了したということは、支配・従属関係がなくなるということである。しかしながら著者はこれら地域の間で支配・従属関係はなくなることがなかったと言う。つまり、「植民地主義」という支配・従属関係がそこにはいぜんとして残っていた指摘するのである。
 1889年の大日本帝国憲法とともに制定された衆議院議員選挙法において、この三地域が代表選出除外地域として定められた。つまり、行政的にはこの三地域は本国(本州・四国・九州など)とは異なる地域として捉えられており、本国の属領として統治されていることを意味している。そのような属領統治体制は日清戦争を経て再編されていく。1899年に元沖縄県技師の謝花昇(1865–1908)が沖縄県への衆議院選挙法施行を帝国議会に請願したことをきっかけに、1900年には北海道・沖縄に選挙区が設置された。その後、三新法が北海道・沖縄でも制定されていくことで、北海道は1903年までに、沖縄は1919年までに本国編入を果たし、属領という支配・従属関係から離脱することができたのである。一方、1945年4月までには衆院選挙法の施行範囲が台湾・南樺太・朝鮮などの植民地にまで広がったが、小笠原諸島は敗戦まで本国に編入されることはなく、属領のままであった。
 本国編入によって、属領という支配・従属関係が解消された沖縄や北海道であったが、そこでは植民地主義というまた別の支配・従属関係が生成していくことになる。北海道では本国編入と並行して、アイヌに対して大和人の言語や生活習慣に同化するような施策が進められたし、沖縄でも本国編入後から同様の同化政策が進められた。さらに本国編入がなされず、属領のままであった小笠原諸島では、1920年以降日本の軍事植民地化が進められ、それまで欧米系住民のためにおこなわれていた英語教育も1940年前後までには禁止され、日本名への改氏名も強制されることになる。このような同化教育や旧慣調査というのは、植民地の台湾・朝鮮などでも進められた。つまり、沖縄・北海道・小笠原諸島の例からわかるように、属領統治と植民地主義との間には連続性があったのである。

洋学史学会2014年度大会「洋学史研究の再生」(2014年7月13日、於:電気通信大学)

 洋学史学会の本年度の大会に参加しました。当日は、ミヒェル・ヴォルフガング先生による「洋学史の諸課題と展望について」という基調講演にはじまり、中村士・渡辺政弥・塚原東吾・平野恵の四氏による問題提起がなされるなど、非常にもりだくさんの内容でした。そして、『洋学』(21号、2013年)の刊行報告もおこなわれました。以下では、独学史がご専門の渡辺政弥氏による「2000年代以降の独学史研究を俯瞰して」という報告を紹介します。

渡辺政弥「2000年代以降の独学史研究を俯瞰して」洋学史学会2014年度大会「洋学史研究の再生」、2014年7月13日、於:電気通信大学
HP:http://d.hatena.ne.jp/yogakushi/20140710/1405006395

 かつて松田和夫は、その研究対象によって独学史研究を4つに分類した。その特徴は、ドイツにおけるヤパノロギー(日本学)の視点から分類した点である。第一期は、まだ日本が伝説・未知の国であった時期である17世紀までで、ヨーロッパに日本をはじめて体系的に紹介したケンペル (1651–1716)などがその代表である。第二期は、日本が現実の国として認識されはじめた時期で、シーボルト(1796–1866)を中心とする 18–19世紀が主に注目される。第三期は、日本が学問対象となっていく時期で、帝大で教鞭をとった日本学研究者・フローレンツ(1865–1939)から1945年 までが対象である。第四期は、日本が経済大国となった1957年以降から現在まで続く時期であり、その主たる担い手は日系企業で働くドイツ人などとなる。
  報告者は、この分類に基づきながら、とくに第一期・第二期の先行研究について概観する。まず、第一期のケンペルについては、大島明秀の『「鎖国」という言説――ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史』(2009年)や小川小百合の「ヴァリニャーノの適応主義と神道――ケンペルの神道理解と対比してみえるもの」『キリスト教史学』(2011年)がとりわけ傑出した研究であると紹介している。このとき、報告者はケンペル研究の研究史上の意義を単に説明するのではなく、彼に関する研究が一般の人にも関心をもってもらえる可能性があると指摘する。たとえば、日本は無宗教の国であるとしばしば言われるが、そのような言説の始原をケンペルの 『日本誌』のなかに見出すことができるのである。
 第二期のシーボルトについては、古くは日独文化協会の編集による『シーボルト研究』(1938 年)が、最近では石井禎一らによる『新・シーボルト研究』(全二巻、2003年)や、この日出版されたばかりの『洋学』(21号)に掲載された沓澤宣賢によるサーベイ論文などがあげられる。シーボルトは日本ではもっとも研究されている外国人の一人であるが、海外ではやや研究は少なく、また彼の思想に関する分析も手薄である。このことは、ケンペル研究が海外でも啓蒙主義研究の一環(実際、ケンペルの思想は部分的にモンテスキューにも影響を与えていたという)として盛んにおこなわれている事態とは対照的である。以上より、シーボルトという学問的に非常に研究されている人物であっても、研究されるべき主題はまだ残っていると報告者は指摘するのであった。
 さらに報告者は、蕃書調所という学問機関に注目する。このときもまた、報告者はその研究史上の意義だけでなく、今日の問題と関連づけようとする。報告者は大学などでドイツ語を教えているが、その際にしばしば、あまり語学に関心をもたない大学生に対していかにドイツ語を教えればよいかを考えさせられていると言う。このとき、蕃書調所でドイツ語がいかに講じられ、学生がどのような反応をしていたかを知ることは、現在の大学での第二外国語教育と何らかの関連性を得られるかもしれない。
 最後に、「洋学史研究の再生」という今回のシンポ ジウムの主題に関して、報告者はいくつかの論点を提出する。しばしば主張される比較研究の意義を報告者は認めつつ、その具体例として、たとえば、中国に洋学がいかに伝わり、受容されたかを研究することもまた、洋学史研究に含めることができると指摘する。つまり、洋学史研究とは日本における洋学の研究にとどまらないのであり、その特徴こそが洋学史研究が有している可能性なのだと報告者は言うのであった。そのため、今後さらに学会を発展させていくためには、何よりも、日本国内にとどまらず、世界中の研究者同士の情報共有の活性化が重要であるとして、結んでいる。

関連文献

新・シーボルト研究〈1〉自然科学・医学篇

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